おっさん化したおばさんの独り言

おっさん化したおばさんのとりとめの無い独り言です

私が勤務医を辞めた理由

高齢出産をした私は、子供がこんなにも愛おしい存在だと初めて知った。

可愛くて可愛くて仕方が無かった。

これまで所属していた医局を離れ、それまで単身赴任だった主人の元へ行き、主婦業と母親業の毎日。私にとってはまるで、おままごとのような新鮮な日々だった。

出産前に途中まで書いていた論文を、我が子の横で仕上げた。今思い出しても、私の人生の中で、最高に幸せだった時期の一コマだ。

 

古い社宅の窓の外にはサクラの木が迫っていて、そこに数匹のセミが止まってうるさく鳴いていたのが印象に残っている。時折、熱を吹くんだ風が室内に入ってくる。風鈴が鳴った。文句のつけようのない幸せがそこにあった。

 

論文を仕上げ、我が子が生後6ヶ月になった所で医師業に戻った。

しばらく、他大学の医局に所属させてもらい、もちろん、当たり前に仕事はしたが、医師としては比較的のんびりと過ごさせてもらった。

我が子は特別物静かで、育てやすい子だった。保育園でも熱をしょっちゅう出す以外は、本当に何も問題にならなかった。

 

我が子が初めての誕生日を迎え、私は市中の病院の勤務医として戦闘員の一人になった。子育てより私自身のキャリアアップが大切だった。

心の中で呟いた。医師の子として生まれてきたのだから、この子が我慢するのは当たり前のこと。沢山の人が我が子の成長を手伝ってくれる。みんなに見守られながら育っていけば、何も問題はないはず。

 

 親の力も借りた。保育園はギリギリまで。託児所も複数契約した。有料で近所のお宅にお世話になったこともある。

保育園以外で一番使った託児所は、ネオンのきらめく街の24時間営業の施設。

息子は、保育園の後、保母さんに手を引かれて電車に乗り託児所へ行く。乗り物が好きだったので本当に助かった。歩き疲れて時折保母さんにだっこされていたようだ。夕飯は託児所のあるビル1階にあったコンビニのお弁当。500円を追加で支払うことで、託児所の職員が適当に買ってきて食べさせてくれる。後ろめたい気持ちがなかったわけではない。でも、他に選択肢がなかった。

 

私の体力がないのか、体調が少しずつおかしくなってきた。

当直の日はほとんど眠れない。当直明け、あえて朝食は食べない。ただでさえ眠いのに朝食を食べれば確実に動けなくなる。自販機で小さな牛乳を1パックだけ飲む。白衣のポケットに口臭予防のタブレットをいつも入れていた。自分の息が臭いのではないか、異常に気になった。

 

他科からの依頼に手が回るのは大抵、夕方以降になる。ようやく自分の科のノルマを終え、別の病棟へ行く。そこには一足早く、私と同じように紹介状で依頼を受けた別の科の医師がカルテ記入をしていた。

「こんにちわ。よく会いますね。」

「やあ、こんにちわ。本当ですね。」

「先生、働きすぎじゃないですか?」

「ははは。お互い様ですね。僕ね、家内に僕が自宅を出た時刻と帰宅した時刻を毎日記入させてるんです。」

「え? どうして?」

「残業記録は、規定以上は書けないでしょう? でも、明らかに本当の残業時間、過労死レベル超えてますよね。記録がなければ、何も証拠がないでしょ。だから、僕が死んだら、その記録を元に病院を訴えるように伝えてあるんです。賠償金で生きて行けってね。僕、死ぬんじゃないかって、最近本気で思うんですよ。体調、普通じゃないし」

私の体力が極端に弱いわけでもないようだった。

 

私たち日本の勤務医は、戦時中と全く変わらず、竹やり戦法で今も戦っている。

長時間勤務でヘロヘロの状態で手術を行うことを武勇伝にしてはいけない。それは患者を危険に晒す愚かなことでしかない。

このことについては、私じゃなくても、今や多くの医師がブログの中に問題点を書くようになったから、これ以上ここでその話をするのは止めておく。

 

託児所へは、私か主人のどちらかが迎えに行った。

ある日、10時半ごろだったと思う。いつものように夜の街の託児所に息子を迎えに行った。

私を見つけて喜んでくれる息子の様子を期待して。

 

息子はいつものように走ってはこなかった。

部屋の中を探すと、いた。わが子は壁にもたれて座っている。座っているだけじゃなくて、眠っている。左手には積み木が握られていた。

積み木遊びの途中で眠くなってしまったのだろう。

 

その姿を目にして涙がこぼれた。これが2歳児の生活だろうか。

朝早くたたき起こされて、慌ただしく朝食を食べ、保育園へ行き、居残りをし、託児所へ移動して、コンビニ弁当を食べ、託児所の壁にもたれて寝る。

子供は無力。何も文句を言わない。

 

日曜日。久しぶりに公園へ連れて行った。私のポケットにはPHSが入っている。電話が鳴りませんように。

手をつないで幸せを満喫している時、よそのお母さんが自分の子の名を呼んだ。わが子と同じ名前。(へぇ、同じ名前なんだ)、そう思ったその時、息子は私の手を振り払って、声のした方へ走って行った。

 

私は息子の世話を焼く大勢の保母さんの中の一人に過ぎなかった。

 

一番かわいい時期を、楽しい時間を一緒に過ごさずに、このまま他人の手に委ね続けていいのだろうか。

二度と戻ってこない貴重な時間。

 

忙しすぎて考える余裕もなかった。仕事を辞めることすら考えられないほど精神を病んでいた。「死」を身近に感じながら、それでも仕事をしていた。自分が辞めれば周りに迷惑をかける、本気でそんなバカげた妄想を抱いていた。目の前の圧倒されそうな仕事をこなすことで精一杯で、明日以降の事など考えられなかった。

 

周囲の説得もあり、ようやく私は仕事を辞めた。

 

ここから本当は少し複雑な話があるんだけれど、それは省略する。

 

息子と一緒に夕飯をゆっくり食べた。はじめて普通の親子みたいに夕方に手作りの夕飯を食べる。

食卓についてお茶碗を持った時、涙があふれ出して止まらなかった。

怖かった。こんなに幸せでいいのだろうかと。

ちょうど、終戦で日本に帰って来た兵隊さんが、戦死した仲間に申し訳ない気持ちになるのと同じかも知れない。

とにかく、申し訳なくて仕方がなかった。戦地から逃げてしまったことが。

「私だけ、こんなずるい思いをして、ごめんなさい」

それが、当時の私の心の病気だったのだと思う。

私の後にはちゃんと代わりの医師が赴任しているし、私よりきっとずっと立派な医師だったろうと思う。申し訳ないなんて、うぬぼれもいい所だ。それでも、当時は、本気で申し訳ないと思っていた。

 

今回はこの辺で。

 

 

■追記■ 2018年10月13日
この文章を書いてすでに4年が経とうとしています。

数年間更新なしで放置しているにも関わらず、毎日少なくない数の方々がこのページに辿りついています。

このブログを書き始めた頃は、医学部再受験についての記事が一番読まれていましたが、徐々に、「勤務医を辞めた理由」が読まれるようになり、最近は、ほぼこちらの数字のみが伸びています。

当時、医師が弱音を吐くことはほとんどなく、みっともないという風潮が強かったと思いますが、もはや医師の過重労働は周知のこととなってきました。ですから、医師や医学部生、医師を目指そうとしている高校生だけでなく、異分野の方々もこの記事を読まれているのではないかと想像しています。

 

さて、今回追記を書こうと思ったのは、その後の私自身について述べる責任があると感じたからです。

この記事は、飾らずに私自身について書いたものですが、時間が経つとまた違った見え方ができるようになります。苦しかったけれど、その時期が今の私を作っているのも事実で、悪い事ばかりではなかったと思えるようになりました。

 

燃え尽きて勤務医を辞めましたが、辞めた事で枯渇していたエネルギーも十分に補填することができ、しっかり自分自身と向き合う事でそれまで見えていなかった風景も見えるようになり、今は与えられた環境に感謝しながら医師業を続けています。

個人的にはハッピーな状態ですが、依然として勤務医の過重労働は継続している現状がありますので、その状況を改善していくための小さな活動を始めました。

今まさに溺れそうになっている方には、とにかく、誰かに相談するなり休みを取るなりして何とか生きながらえて下さいと申し上げたうえで、一方で、サバイバーが力を合わせて、この状況を改善していく仕組みを構築していく事も大切だと感じています。

 

医師は本来とてもやりがいのある職業です。患者さんに力をもらう事も少なくありません。様々な原因があると思いますが、医師が委縮してその能力を十分発揮できなくなりつつある現状は、医師、患者双方に取って大きなマイナスだと感じています。何とかその壁を打破したいと考えています。