おっさん化したおばさんの独り言

おっさん化したおばさんのとりとめの無い独り言です

医学部再受験までの道のりと受験勉強

今回は、再受験に向けて私がどうやってきたかをつらつらと。

(留学生の話は、また今度)

 

私の最大のネックは、親の同意が得られなかったことだった。だから誰にも再受験について相談していない。

誰かに相談したところで、前向きな回答が得られるとは考えられず、じゃあ、後ろ向きの回答をもらって諦められるか? と自問した時、それはない、と思った。だったら、それが答えではないか。相談する必要はない。医学部へ行く、どころか、受験することですら実現できない可能性が高かった故、再受験を考えていることも、ほとんど誰にも言わなかった。

 

ほとんど、というのは、例外がいたから。

短大在学中、2年の夏休みと3年の夏休み、私は、基礎講座の研修室に入り浸り、基礎の勉強を徹底的に行った。これは、医師でない生き方を模索するためで、教育熱心な教授にお願いして実現した。朝早くから遅くまで一日中、研究室で過ごしたり、カンファレンスに参加させてもらった。医学部再受験、という世界から目をそらすために私なりに必死だったのかも知れない。

2年の夏休みの後半は、先輩が一人合流した。とても元気のいい先輩だった。今振り返っても楽しい思い出だ。

ラジオカセットでカーペンターズをかけていたことを思い出す。

 

その先輩と勉強の内容だけでなく色んな話をするようになって、この人は医学部受験を考えてる、と感じた。

それで、「先輩、医学部受けたいって思ってるでしょ?」と聞いた。

その時の驚いた顔ったらなかった。

「え? えぇ? な、何でわかった?」

その時、私は初めて、再受験を考えていることを口にした。

「私とおんなじだから。」

先輩は、医学部を受験したかったそうだ。偏差値が足りず、あきらめて一旦こちらへ来たけれど、やっぱり諦めきれない。再受験を考えてる、ということだった。

彼女も胸のうちに熱いものを秘めていて、その思いは、その後二人で共有することになった。私の心のうちを知っていたのは、彼女一人だけだったし、彼女の思いもまた、私一人しか知らなかった(はずだ)。

 

医師という仕事を諦めるために、研究室に入って専門の勉強を一生懸命やったわけだが、結果として、医師への憧れがますます大きくなったのは皮肉なことだった。それは、教授について回って臨床の現場を見たこと、そして先輩と話して、自分の気持ちにまた火がついちゃったことも関係しているだろう。

 

在学中は自分の生き方を徹底的に考えた。その道で誰にも負けないプロとして生きていく、それも選択肢の一つとして加えた。しかし、やっぱり「再受験」することは諦められずにいた。

就職先を企業にした。病院勤務が当時就職先の花形だったが、あえて企業にしたのは、自分の時間を確保するためだった。日曜日や勤務時間外を勉強時間にあてるために。それから、病院勤務に比べて給料がいいのも魅力だった。

 

短大卒業と同時に訪ねた所がある。受験予備校だ。

付け焼刃で勉強して何とかなった短大受験とは違う。どうやって医学部に合格するか、仕事をしながらの受験は全く自信がなかったので、いつかは仕事を辞めて受験勉強に専念したいと思っていた。だが、それまでの間、どうやって過ごしたらいいだろう? とにかく、専門家に聞いてみようと思った。

 

恐る恐る予備校のドアを開けた。

事務室のような所にいた人は、予備校の先生だったんだと思う。

「あのー、ちょっと相談させて頂きたいんですけど。。。」

こんな単刀直入に切り出して、まさか即答してもらえるとは思っていなかった。

軽くシッシッとあしらわれるか、身元などを聞かれるか、別の時間帯に来いと言われるか、あるいは、、、一体どういう対応をされるだろうかと思っていた。

 

ちょうど、私が尋ねた先生が、(授業前とかではなくて)手が空いていて、かつ、とても心の広い人間で、、、、とにかく、タイミングといい、その先生の答えの抜群さといい、あれは、本当に私にとっては奇跡の時間だったと思う。

 

「何でしょう?」

「あのー、医学部受験を考えているんですけど、お金がないから今年から働く予定で、で、お金が貯まったら浪人する予定です。それで、えーと、それまでの間、一体どういう勉強したらいいのか、それを伺いたくて。。。ずうずうしくてすみません」

 

そんなことをしどろもどろに言ったと思う。

その答え。

「あー、だったら英語やったらいいですよ。他の教科は浪人してからどうとでもなりますけど、英語はねー、身に付くのに時間がかかりますからねー」

私の名前も聞かない。本気で医学部を受けるのか? みたいな説教じみた事も言われない。スパッと、核心を突く答えを簡単明瞭に。今考えてみたら、先生も忙しかったんだろうね。さっさと答えてさっさと切り上げたかったのかも知れない。でも、この先生に巡り合って良かったと思う。貴重なアドバイスをもらった所で、折角だからもう一押し。

「あー。英語ですか。はい、ありがとうございます。あのー、数学なんかも心配なんですけど。私、高校で数IIIとか勉強してなかったので、一から勉強することになるんですけど、何か少しやっておいた方が良いような気がしていて。。。」

昔の数IIIは、分野としては微分積分になる。今はどういう分け方になっているのだろう。

 

実際は、数学どころか、社会だって、国語だって、理科だって、自信のある科目は何一つなかった。

先生の答え。

「数学? しなくていいよ。履修してないんだったら余計に自分で勉強したら効率悪くて時間の無駄でしょ。浪人してからで間に合うから。でも、英語は間に合わない」

 

すごいねー。

これ、もし、母校の先生の所なんかに相談に行ってたら「オマエなー、何寝ぼけてんだ、ぼけ。オマエみたいなんが通るほど医学部は生易しくないんだよ。一昨日来やがれ」とでも言われて追い返されただろう。

 

この私に、数学は浪人してからで間に合う、と断言された。

 

それまで私は親から一度も褒められたことがなかった。オマエはダメだ、とばかり言われて育った。

見ず知らずの予備校の先生から、背中を押された気がした。

よく考えてみると、この先生は、高校時代の私の成績をご存知ない。医学部を目指すぐらいだから勝算あってのことだろう、ぐらいの気持ちだったに違いない。

もしも私の高校の頃の成績をチラとでもご覧になったら、違った答えになっていたかも知れない。。。

でも、なぜか当時の私はそうは考えなかった。

浪人して予備校に通いさえすれば間違いなく医学部に合格するはず、と思った。

単純だったんだなと思う。単純で良かった。

「合格するだろうか?」なんてことは考えたこともなかった。

「合格するためには、どうしたらいいだろうか?」それしか考えなかった。

 

予備校の先生からの答えは、時間にしたら5分ぐらいのものだったけれど、答えが得られるかわからない状態で、それでも電車に乗って訪ねて行った価値は計り知れない。

就職して私は英語以外の参考書は一冊も買っていない。予備校の先生の言う通りにした。日曜や平日の夜はひたすら英語だけをやった。

実際には、実家での家事の多くが私の仕事だったので、平日の夜と言っても自由に使える時間は少なかった。一番貴重な時間は、職場までの通勤時間。車通勤だったので使えるのは耳だけ。カセットテープのついた教材を買い、ひたすら聞いた。どんな学習法が最適なのかわからないまま、とにかく、一歩でも二歩でも先に進むために、私はカセットで英文を聞き、自宅では、わからない単語を小さな紙切れに書き、翌日職場に持っていき、みんなにお茶を淹れたり、お湯呑みを洗う時間を沢山作って、給湯室で手を動かしながら水道の横に紙を置いて、ぶつぶつ言いながら単語を覚えた。(もちろん、最初からそんなことをしたわけではない。最初はそれこそ必死で仕事を覚えることに集中した。)

 

ところが、就職してしばらくすると、面白そうな仕事の話がやってきた。私が短大2,3年の夏休みに必死で勉強した分野だった。心が動いた。もう一つ上の資格を目指して頑張ろうと思った。実際に部署が変わって、真剣に専門の勉強をした。ところが、会社の方針で、私には上を目指すことができない、と言われた。理由は私が女だから。ショック。。。

新しく立ち上がった部署には3人が配属されたが、私はそこでお手伝い的な仕事をするだけだった。あとの2人は男性で、そのうちの1人が会社のお金で勉強させてもらえることになった。上司からは、彼が来年試験に合格したら、今度は君の番だから、と言ってもらえた。

 

私は、独学でそちらの勉強と、英語の勉強を平行して行った。一つ上の資格取得は1年間待つことになった。次は私の番。そう思って。英語の勉強は単なる惰性になっていた。それでも、通勤の行き帰りのリスニングと、単語や英文を覚える訓練だけは続けた。もちろん、運転中すべての時間を音声に集中できるわけではない。信号で止まった時とか、踏切とか、混雑していて車が動かない時などしか音声は耳には入ってこない。でも、片道30分近くかかったから、積み上げると結構な時間になる。同じテープを何度も何度も聞いた。テープは入れっぱなしだったからエンジンをかけるとすぐに英語が流れてくる。だからとりわけ「英語を必死に勉強した」という感覚はない。本当に惰性で続けていただけだった。

 

因みに、使ったのは、一つはこちら。CDって書いてあるけど、当時はカセットだった。英文をほぼ丸暗記した。

アメリカ口語教本 入門用 新訂版 CD3枚組

 

もう一つは、当時出たばかりのアルクのおなじみ「English Journal」。これもカセットがついていたので。中身が斬新で毎月楽しみだった。高校時代は英語零点だった私には難しすぎる内容だったけれど、憧れだけで聞いていたような気がする。今振り返れば、決して適した教材だったとは言えないと思うが、当時、勉強の仕方もよくわからなかったし、モチベーションアップに貢献してくれたし、何より、医学部に入学して留学生会館で生活するようになって、実用面でその力を発揮してくれたので、まあ、これはこれで結果オーライということで。

アルクが創刊されてから間もなく、非常に充実した英語学習雑誌が売り出された。二ヶ月に一回発売で、とても楽しみにしていたけれど一年ほどで姿を見なくなった。出版社が頑張りすぎて、採算が合わなかったのかも知れない。本当に好きな雑誌だった。アルクだけは今も大活躍で、あの時から一緒に年を取ってきたような気がする。たぶん多くのアルクの社員さんよりも私の方が会社の歴史を知っていると思う。

 

 

一年我慢するはずだった専門の勉強。ところが、一年で済まなくなった。会社のお金で勉強させてもらっていた彼が、試験に落ちちゃったからだ。彼にもう一年出資する、という話だった。計画が大きく狂った。

 

現実を見るのが怖かったのだと思う。自分は一体どこへ行こうとしているのか。

親との戦いにも疲れが出ていた。一つずつ年を取っていく、再受験などと言っている自分が的外れなことばかりしている人間のような気がしてならなかった。同期の友人達は病院で専門の技術を着実に身につけている。それに引き替え私は。。。

 

何もかもが宙ぶらりんだった。医学部受験はいつの間にか遠くへ去った。次の資格試験はまだ勉強さえさせてもらえない。独学だけ。そんな中、私は別の資格を取る方向へ走ってしまう。最初に取ろうと思った資格は、数日間の講習を受けて最終日に試験を受ければ、ほぼ間違いなく資格がもらえる。真面目に話を聞き実習を受けさえすれば試験自体は難しくない。その資格を取ったら、次は関連する資格を次々に取ってやろうと、大量に専門書を買い込んだ。いつの間にか私は資格マニアになっていた。

 

講習会場に向かった。新幹線に乗ってぼーっと外を眺めて過ごした。追い立てられるような生活から初めて解放され、車窓の外を流れる景色をゆっくり楽しんだ。新幹線の中で読む本もバッグに入れていたけれど、結局それを出すことなく、窓の外を流れていく畑や青い空や、遠くをゆっくり動く山々を何も考えずに眺め、本当に初めてリラックスした時間を持ったと思う。

 

1時間近く呆けていただろうか。突然、雷に打たれたような感覚が走った。

「今、辞めないと、一生できなくなる」

本当に、そういう声がした。

心臓が高鳴った。

「いくつ資格を集めてみても、それは決して医師免許にはならない。誤魔化してるんだよね、私。本当にやりたいことを誤魔化すために、いくつもワケわかんない資格を取ろうと必死になってるんだよね。いつまでこんなことを続けていくつもり?」

そう考え始めると、動悸はいつまでも続いた。私は会場に着くまでに仕事を辞める決心をしていた。その資格までは取得したが、次の資格を取ることはもう考えなかった。

 

今年受験に落ちる浪人生達と一緒に4月に予備校に入学しよう。今を逃したら二度と受験できないだろう。年齢的にも精神的にも。2年間節約してためた貯金もそれなりの金額になっていた。機は熟しすぎるほど熟していた。

 

この決心は大正解だった。資格を取って社に戻ってみると、待っていたのは上司の次のような言葉だった。

「申し訳ない。○○がまた試験に落ちちゃってなあ。今年は君の番だって言ったけど、あと一年我慢してくれないか」

 

私は仕事を辞めた。

辞職して間もなく、ある所から電話があった。専門の勉強をするために海外に留学してみないか、という話だった。国から給料をもらいながら存分に勉強させてもらえるという有り難い話だった。会社で月一回行われていた勉強会で、講師をされていた有名な先生からの話だった。

すでに医学部受験モードに入っていた私は、この話をお断りした。

 

しかし、実は、この話があったからこそ、私は医学部に入学することができた。

医学部に合格した時、母が不機嫌だった話は以前に書いた通りだ。

母が最終的に入学を許可したのは、私が海外に行ってしまうかも知れないと、危惧したからだ。二つを比べて苦渋の選択で入学を許可したにすぎない。もちろん、父が説得したことも母が折れた理由だったろう。この時、この話をもらっていなかったら、私は、医学部に合格しても、入学はできなかったんじゃないかと思う。もちろん、受験勉強を開始する時点で、合格してもなお、母が入学を許さないかもしれないなんていう状況を、私は想定していなかった。受かれば当然認めてくれるだろうと考えていた。

 

予備校の勉強は面白かった。名物講師がいっぱい。今まで我慢してきた「受験勉強」への意欲、押さえつけられていた欲望の重石が取り除かれて、貪るように勉強した。

 

寝る、食べる、お風呂、トイレ以外は全部勉強時間。

電車の中は立ったまま英文を覚えた。次の駅までに、ここまで英文を覚える、なんて具合にタイマー機能が働くから、電車は集中できる勉強部屋だった。電車を降りて予備校まで歩く間、ぶつぶつ覚えたばかりの英文をつぶやいた。

 

勉強方法について私は特別な事は何もしていない。

与えられた教材で予習、授業、復習を行う。中学生、高校生が当たり前にやっていることを遅れてやっているだけ。受験に不必要な科目を勉強しなくていいので、大層効率はいい。中・高校時代の間延びした無駄な時間を1,000倍凝縮したような時間を送った。

 

就職してから英語をやっていたのは本当に助かった。高校ではあれだけひどかった英語だが、予備校に入学した時点で英語だけは偏差値60以上だった。まんざら間違った勉強法でもなかったようだ。入学後はもちろん入試に向けた勉強に切り替えた。試験を受けるたびに面白いように偏差値は上がっていった。

 

数学なんかに手を出さなかったのも正解だったと思う。授業を受けて授業中にポイントを理解した上で何度も似たような問題を解く。実に効率よく理解が深まった。あの効率性は自分一人では無理だった。また、数学はじっくり取り組む時間が必要で、気持ちがワサワサしていた就職中には絶対にそんな時間は作れなかった。もし、数学に手を出していたら、きっとわかったようなわからないような中途半端な状態で浪人生となり、逆に変な知識が邪魔になったのではないかと思う。

数学は、最初は点が取れなかったものの、問題数をこなすうちに順調に成績が伸びた。微分積分は最初は苦労したが、一旦理解すると、私の一番の武器になった。

 

 焦りはあった。やるべき事が多すぎて。でも、だからこそ、少しの時間も無駄にできず、集中できたんだと思う。

 

国語はそんなに力を入れる必要はなかったけれど、とにかく国語の先生の授業が圧巻で、立ち見まで出るほどの人気だった。「国語」という科目が、実はそんなに奥深く面白いものだということを私はそれまで知らなかった。必要以上に国語の授業を受けた。私の息抜きの時間だった(勉強の息抜きが勉強なんて変だけど)。

 

基本的には予備校のテキストを中心に学習した。他の参考書はあまり使っていない。予備校のテキスト以外で私が一番お世話になったのは、矢野健太郎先生の「解法の手引き」。ぼろぼろになるまで使った。「解法のテクニック」は買わなかった。厚すぎて無理だと思った。

 

先に書いた電車の中で覚えた英文は、駿台受験シリーズの基本英文だったと思う。アマゾン探したら、これがあったので、たぶん、これの元祖みたいなものだったんだろう。薄い本で、これもぼろぼろになった。

新・基本英文700選 (駿台受験シリーズ)

 

ぼろぼろと言えば、英語の辞書。本当に長い時間を予備校で過ごしたので、持って行く学習書が沢山になる。講談社から文庫本が出ていて、感激した私はそれを購入した。なかなか中身も充実していてコンパクトだ。それに安い! 私のお気に入りで、本当に愛用させてもらったが、いかんせん、文庫本なので表紙も薄い。表紙と裏表紙が取れかけて1,2度補強したが、やがて外れてしまい、それだけでなく最初の著者の挨拶なんかも取れちゃったけど、幸い、辞書本体部分は生き延びていたので、最後まで使い通した。この辞書はずっと私の相棒だった。大学時代は同級生に驚かれた。流石に、あまりにもぼろぼろになったので、社会人になってから、同じ辞書を再度購入した。

 

私は、本は使い倒すものだと思っている。本をとても大事にする人にとって、私のような本の使い方は許せないかも知れない。

単語の本は、買ってすぐにバラバラにした。項目ごとにホチキスで留め、一冊が10冊ぐらいになった。ホチキスで留めた物をポケットに入れ(二つ折りすることもあった)、どこへでも持ち歩いた。上着のポケットに入れていれば、すぐに取り出せる。人の多い電車の中でごそごそ鞄の中をかき回す必要もない。手ぶらでトイレに行った時だって、単語を一つ覚えられる。単語の本は覚えるためにあるわけで、覚えてしまえばもう必要ない。バラバラにすると失くす可能性はある。でも、どうしても必要になったら、また新しいのを買えばいい。そう思っていた。結局、買わなかったけれど。単語帳を作る時間が惜しかったから、既製の本を単語帳にした、と考えてもいいかも知れない。

今は、スマートフォンがあるし、色んな便利なアプリだって揃っている。昔と比べて勉強はずっとやりやすくなっているんじゃないかと思う。アナログ時代に育った私には、使いこなす自信がないけど。

 

予備校が休講の時は、図書館や色んな公共の場を利用した。学習室を備えた図書館は人気スポットで、朝早く行かないと場所が無くなってしまう。予備校に行くのと同じように朝早く出かけた。受験生が大勢いた。最近、図書館で勉強できるところは少ないんじゃないかな。そういう場所が複数箇所あっただけでも恵まれていたと思う。

予備校が休みだなんて親に言うと、何だかんだと用事を言いつけられる。家では集中できないとか、そんなレベルではなく、とにかく勉強するためには家から離れる必要があった。

 

こんな感じで、私の再受験物語はおしまい。

また、今度。

 

留学生との共同生活 ー 言葉の不思議

留学生会館とは本当に不思議な所で、日本なんだけど日本じゃない。

自分が一体何人(なんにん、ではなくて、なにじん)なのか、感覚がおかしくなってくる。

 

中国の留学生達の旧正月、私はパーティに招かれた。会館の1階は大きなフロアになっていて、話し合い、パーティ、卓球大会、各種の催し物ができるようになっている。ここには台所もついている。

中国人留学生がほぼ全員集まると圧巻だ。

一緒に餃子を作る。大量の材料、皮もみんなで一緒にこねる。

皮と中身、どちらが余るでもなく、ぴたりと量が一致したのには驚いた。

それにしても、こんな大量の餃子、本当に食べきれるのか。。。

 

日本では餃子と言えば焼き餃子。留学生達が作ったのは、水餃子だった。

準備をするまでは、みな、私に気を遣って日本語で話してくれた。

ところが、いざ、テーブルについて、お酒が入り、盛り上がりを見せてくると、もう大きな中国語があっちからこっちから飛び交い、時々、どっと笑い声が沸き起こる。中国語はチンプンカンプンなので、私だけ目をパチパチすることになる。

隣にいた一人が、私に同情してくれて、途中、ちょっとだけ通訳をしてくれたが、肝心の笑いの通訳まで到達する前に次の笑いの波が来てしまった。そして、通訳担当の彼が発言をしたのを期に、いちいち教えるのが面倒になったようで、一人取り残された。

大きな宇宙語のシンフォニーに包まれたまま、私は、ひたすら餃子を食べることになった。

 

中国人留学生が作った餃子は最高に美味しかった。

焼き餃子と違って沢山入る。油を使ってないっていうのもだろうけど、野菜がたっぷり入っていて重くないっていうのも理由の一つだろう。

 

言葉が全くわからない環境に身を置く、というのが、どういうことか、この時知った。私以外の皆が、同じ世界を共有する中、私だけが違う世界にいる。一緒に座っているっていうのに。

人間が言葉を作ったのは、まったくもって素晴らしいことだと心から思う。これで大勢の人と世界を共有できるのだから。

 

中国語、と言えば、中国人同士でも会話が成り立たない場面があって面白かった。いわゆる方言だが、日本でも、方言がわからなくて苦労する場面は多い。それが、広大な中国。余計だろう。

多くの留学生は北京語を喋っていた(らしい)が、全く北京語が話せない広東出身の留学生がいた。もういい年をしたおじさんだったと思うが、素朴で剽軽な性格で(農作業の途中で出てきたみたいな純朴な感じの人だった)、中国人留学生の間でも、他国からの留学生の間でも人気があった。同じ母国の人たちからは、しょっちゅうからかわれていた。彼の喋る中国語がわからないだけでなく、日本語もかなり独特でしかも早口、聞き取りづらかったからだ。

「しゅうさん、何言ってるか、ちっともわかんないよ」

そう誰かが言うと、みんなと一緒に本人もアハハハと声を上げて笑った。

 

さて、話は変わるが、日系南米人。ブラジルではポルトガル語が使われるが、ペルーやアルゼンチンはスペイン語である。ところが、彼ら彼女らは、普通に、お互い母国語で話している。不思議に思っていると、「相手の言葉は喋れないが理解できる(speaking は無理だが hearing はOK)」と言う。当時の私には新鮮な驚きだった。

 

マルチリンガルの方たちを、私は心から尊敬しているが、案外、第2外国語からの習得は、どんどん楽になっていくのではなかろうか。学習方法を確立しているだけでなく、少なくともヨーロッパ言語では語源が一緒である物が多いはずだからである。

 

第2外国語は強制的にドイツ語だったが私は赤点スレスレで合格した。ほぼ使えない(威張ってどうする!?)。もうほとんど忘れちゃったけど、「大学」が「ウニベルズィテート」だったことは覚えている。英語"University"  をローマ字読みしたら、そっくりじゃんっと感心したので、なぜかこれだけ頭に残っている。

 

そう言えば、私の大学では当時、解剖学はラテン語だった。ただでさえ暗記物が苦手な私、よりによって、何でラテン語。。。

系統解剖の仕上げに口頭質問があった。教授が目の前の神経や筋肉や骨を指さして学生一人一人に答えさせる。私の番。緊張の瞬間。名前を覚えていた、はずだったが、女性名詞だか男性名詞だかを間違えていたため語尾が違った、で、教授にそれを指摘された。心の中で叫んだ(どっちだっていーじゃないか!)。

具体的な名前は覚えていないが、男か女かで、「ナニナニラーレ」になるか「ナニナニラーリ」になるか、みたいな違いだったと思う。

 

脱線ついでに。

後日、教授に質問したことがある。(こういう質問をするのは、再受験者や、ちょっと変わり者、図々しい人間に決まっている。)

「今、もだえ苦しみながら覚えているラテン語の解剖は、一体全体、将来臨床で役に立つものなのでしょうか?」

教授の答えが秀逸だった。

「解剖学は学問です。大学は学問を学ぶ所であって、臨床に役に立つとか立たないとか関係ありません。専門学校じゃありませんから。基礎医学には基礎医学のプライドというものがあります。役に立つから勉強する、ではなくて、学問のために純粋に勉強してください」

 

その時、私は、ちっとも教授の言われる理屈を理解できなかった。単なる頑固じじいの屁理屈としか考えなかった。しかも、この言葉の前に、カチンとくる枕詞がついたのだ。

「どうしてこんな簡単なことが覚えられないのか、私にはそちらの方が不思議でなりません。授業中に大体覚えてしまえるでしょう? 試験前に、もう一度、サラッと復習すれば完璧ではありませんか」

 

要するに、教授は私に「オマエは馬鹿だ」ということを言いたかったのだ。これを直接言ってしまうのは可愛そうだから、長ったらしい説明をされたのだと思う。

読者の誤解を避けるためにも言い訳をすると、解剖学というのは「胃」とか「腸」とか「脳」とか、そんな大雑把な分け方では決して無く、私には解剖学の教科書が本当に「電話帳」に見えた。オタクにとっては究極の楽しみであっても、一般人にとって「電話帳」の丸暗記は苦行以外の何物でもなかった。

骨は単に長い棒ではなく、一本の骨にも(何も棒状の物ばかりではないが)、細かな凸凹やら、「スジ」みたいなものがある。それにいちいち名前が(しかも男やら女やらの区別がついたラテン語が)ついている。あぁ、いっそ、人間に筋肉や骨なんかなかったら良かったのに。本気でそう思った。

(そう言えば、私はすでに大雑把な解剖を勉強していた。それで国家資格まで持っている。でも、日本語だったし、骨のスジなんかは出てこなかった。。。と、どこまでも言い訳がましい私。。。)

 

脱線がえらく長くなってしまった。

当時は、理不尽だと思った解剖学だが、大学が純粋に学問を追究する所だというのは、今は多いに賛成するし、それが本来の姿だと思う。ただ、医学生の学ぶ内容があまりにも年々膨大になっていく中で、純粋に学問として楽しむ余裕が無くなっているのは、残念と言えば残念なことだと思う(もう試験を受けなくていいので、好き勝手言っている)。

 

留学生と言葉の話題に戻ろう。

 

インド人の日本語習得の早さには驚いた。ヒンディー語には発音がめちゃくちゃ沢山あって日本語は基本的に、あいうえお、の5音だけだから当てはめるのが簡単だって教えてくれた。語順も日本語に似ているらしい。ヒンディー語を学習したことがないので、本当かどうかは知らないけれど。目の前であの文字を書いてもらうと純粋に感動する。でも、私には、あんな難しそうな文字を習得する自信は全然ない(何を威張っているのだろう)。

出身国によって日本語習得の速さに差があり、かつ、特徴があるのは面白い。日本人にとって「アール」「エル」の区別が難しいのと同じだろう(と言っても、最近の若い人の英語は本当に綺麗だと思う)。

韓国人は「つ」の発音に苦労する人が多い。

「ひとつずつ」なんて言わせると、「ひっとちゅじゅちゅ」みたいにぐちゃぐちゃになる。

 

もう、思いついたまま書き殴っちゃってるけど、日本語習得の速さって本当に個人差が大きい。

ダントツ速いのは子供。小さな子連れで来てる留学生、親はたどたどしい日本語しか喋れないのに、子供は完璧な日本語。日本人の子供と当たり前に遊んでるし、当たり前に喧嘩する。少々英語を勉強したって人でも、英語で喧嘩するのって、結構ストレスじゃないかと思う。

 

大人では、社交的な人は速い。とにかく間違えてもいいから使う。日本語の先生から習ったばかりの日本語の言い回しを、早速会話の中に取り入れる。時々、とんちんかんな所でやたら難しい熟語なんかを使ってるのを聞くと、(ああ、昨日習ったんだな)、と思う。使い方がおかしいと指摘すると、しつこく聞いてくる。こういう人は上達が速いと思う。

 

折角日本に来ているのに、日本語が下手、を気にして、部屋に閉じこもっている日系人留学生もいた。帰国までほとんど日本語を習得しなかった。日本で育ったわけじゃないから日本語が下手なのは当たり前だと思うんだけど、日系人の中には家の中でお爺さんの日本語などに触れていた人もいて、そんな人と比べて喋れないのが恥ずかしかったんだと思う。語学学習(特に聞く、喋る)にプライドは邪魔だ。

 

多くの留学生が、大学や大学院での学習、専門の研究を始める前に、日本語だけを専門機関で学習してくる。徹底的に集中して学習してきた留学生は、本当に感心するくらい上手になっていた。死にものぐるいで勉強するからなんだろう。

 

 話がずれちゃうけど、日本の大学って授業も日本語だし、本当に日本語の知識がないとやっていけない場合が多い。これは、常々留学生から聞かされた日本の大学に対する愚痴のナンバーワンかナンバーツーだ。

これはなあ、しょうがない部分もあるんだよなあ。母国語で専門の学習までできちゃうのが日本のすごい所でもあるし。

 

ただ、ひどい科になると、日本語で論文を書け、と教授から言われるらしく(もう30年も前の事だから、今はいくら何でも改善していると思うけど)、「僕らは、日本語の学習に来たワケじゃない!! 専門の勉強に来ているのに何でだ、おかしいだろ。論文を書くレベルまで日本語の学習しようと思ったら専門の勉強する時間なんてないじゃないか。第一、日本語の論文書いて日本人以外の誰が読むのか? 母国の連中にもわかってもらえないじゃないか」という、普通に考えて、非常にまともな意見を熱く語られても、何もできない無力な私だった。

 

留学生会館に長くいると、こちらの日本語がおかしくなってくる。留学生からは「英語を使わずに日本語で喋ってほしい」という要望があった。尤もなことである。意欲があってよろしい。しかし、これが時々、すごく難しくなる。人に頼んでおきながら、自分たちは会話の途中からいつの間にか英語に移行している。英語で質問されて日本語で答えるのは、すごくストレスになる。言葉が出てこなくてフリーズする。「あんた達が無茶な事を私に要求するからだ」と切れたら、大笑いされて終わった。

喋る日本語も、友達に話すみたいに行かない。相手が理解できるように考えながら喋る。さらに、留学生独特の変な日本語に引きずられる。妙な日本語を喋る日本人になっちゃったじゃないか。

本気で悩んだ事があった。喋る日本語の一文が異様に短い。

「だいじょうぶ。私が行く。」

こんな感じだ。本当はどうして大丈夫なのか、長い言い訳や気持ちがあるのだが、それを全部省略して結論だけになっちゃったりした。普通に友達に喋るみたいに喋った方がいいのは十分わかっている。わかってはいるけど、そうしたらどうなるか。当然話が先に進まない。結論に辿り着かず、それどころか何の話をしていたのかも途中からわからなくなったりする。何度かそういうことを繰り返すうち、結局、喋り初めていきなり長いトンネルにゴーッと入って(ここは心の声で口から出てこない)、駅の手前でポッと出て来るみたいな裏技を使うようになり、私の日本語がおかしくなった。

 

お掃除のおばさんから「あんた、日本語上手やねぇ」と言われたことがある。

もうがっくりきた。

「あぁ、どうも、私、日本人ですので」

「あははは。日本語で冗談も言えるんやね」

「いえ。ホントに日本人です」

「ああ、日系人か。顔は日本人みたいやもんな」

「いえ、ホントのホントに日本人です」

もう、半ばやけくそ。

「ははは。わかった、わかった。でもな、ホントの日本人と、ちょっと違うんやわ。イントネーションがな。頑張って日本語勉強続けや」

 

留学生会館の1階のソファに座って新聞を読んでいた時、市役所だかどこだか知らないが、3人ぐらいお偉いさんがやってきた。「視察」というものだったのだろう。

にこにこ笑いながら、一人のおじさんが

「アンニョンハシムニカ」

と遠くから声をかけた。ソファには私しかいない。間違いなく私に挨拶されておられる(と、おかしな敬語を使ってみる)。

何と言うか、びみょーな気持ち(と、今度は若者言葉を使ってみる)。

「こんにちわ」と頭を下げた。

そうすると、また一人が

「アンニョンハセヨ」

と声をかける。

(こんにちわ、と日本語で答えたよね、私。。。)

でも、ふっと申し訳ない気持ちになる。

留学生会館に来たのに、日本人学生しかいなかったら。。。。

例えば、動物園にライオンを見に行ったのに、肝心のライオンがいなくて犬しかいなかったら、私だったら、それはもうガッカリするだろう。

正直言って、面倒という気持ちもあった、確かに。

何で日本人の私がここにいるのか、とか、どうしてガイコクジンがラウンジにないのか、とか、おじさん達はきっとモヤモヤした気持ちになるだろう。

 

それで、反則だとは思ったが、、、

「アンニョンハシムニカ」と頭を下げた。

すると、おじさん、大喜び。3人目がさらに

「シェシェ」と言う。

えぇっ? いくら何でもそれは違うだろう。

 

留学生が哀愁たっぷりに愚痴るんだよね。ボクは動物園の動物じゃないって。

ジロジロ見られたり、子供に指さされて「ディスィザ ペーン」なんて言われて悲しくなるとか。。。(さすがに今時そんな子供はいないだろうが)

その気持ちが半分だけわかったような気がした。

 

お偉いさん達から見た私は「アジア系留学生」で、「ディスィザ ペーン」の西洋人に対する態度とも違う、何だか同情を含んだ、それでいて馬鹿にされているような悲しい気分を味わったのは確かだった。

 

 

今日はこの辺で。

 

 

留学生との共同生活 ー 序章

ここしばらく、思い出話モードになっているので、その流れで大学時代の思い出をつらつらと。。。

シリーズで行こう。

 

親の反対を押し切って医学部に入学したまでは良かったものの、経済的には、ヒジョーに厳しい状況で、入学直後より毎日お金のことばかり考えて暮らしていた。

 

奨学金制度の利用もいくつか検討したんだが、応募する前にあえなく敗退。

実家に書類の記入に両親の収入の欄があることを伝えたら、「うちは無理よ」で終わり。共働きの両親は低所得者層には残念ながら(?)該当しなかった。。。

さらに、追い打ちをかけたのが、高校の頃の成績。

暗黒時代の最終章は、目も当てられないほど悲惨な状況だった。

「成績優秀でありながら経済的に困窮している学生を支援する」奨学生の条件には、何一つ該当しなかったわけだ。

 

というわけで、自力で生きていく以外に私の道はなかった。

   

アルバイトの記事でも書いたが、検査センターでのアルバイトが見つかり、何とか生きていく希望が見えてきた。

 

住まいは自治寮。すなわち学生が自分たちで運営する寮であり、寮母さん等、世話をしてくれる人が一人もいない。その分、寮費はタダ同然。

ラッキー♪ と、最初は思った。思ったんだけれど、甘かった。。。

 

文化系中心で成り立つ自治寮は、とにかく行事がスゴイ。しょっちゅう会議、月一回の寮上げてのどんちゃん騒ぎのお祭り。理科系学生は必ず留年する、というジンクスが囁かれていたが、あれだけ遊び回れば、そりゃそーだろー。大学って学ぶところじゃありませんでしたっけ???

 

ドイツ語のテスト前日は夜通しの寮生全員参加の会議。。。単語帳を持って参加したが、もう涙目だった。

 

ただでさえアルバイトで時間がないのに、寮で生活を続けたら発狂するに決まってる。一体私は何のために医学部に入学したんだ!? いつ勉強すればいいんだよ?

 

これはもう、最初から7年計画で行くしかないか? 最初に2~3年間、とにかく稼ぎまくって大金ためてアパートに引っ越すとか。。。しかしなあ、年齢がこれ以上上がるのはなぁ。

 

捨てる神あれば拾う神あり。

留学生会館というありがたい場所があることを偶然知ることになった。

そこに日本人も住めるという話じゃあーりませんか。寮費と比べると会館の費用は格段に高い(と、その時は思った)。19,000円だったっけ。この値段は当時の私には手が届かない高級マンションなわけだが、しかーし、日本人の場合、留学生達の手助けをする、という仕事と相殺されて、寮費とあまり変わらない値段で入れるんだって、お得な情報ゲット。

「ここだ! ここしかない!」と、そう思った。

逆に「ここに入れなかったら、私の医学部生としての生活は成り立たない」ほど切羽詰ってた。

 

で、トントン拍子に話が決まって、1年生の夏休みに、留学生会館に引っ越すことになった。

 

圧倒的勢力を誇る中国人を始め、韓国、フィリピン、インドネシア、インド、タイ、その他多くのアジア諸国を始め、日系南米人(アルゼンチン、ブラジル、ペルーなど)、そして、米国、コスタリカ、エジプトなど私たちとは明らかに顔つきが違う方々。

年齢も様々で、一人で来た人もいれば、夫婦で、あるいは子供連れの家族と、それはそれはバラエティに富んだあらゆるヒトビトが一つ建物の中で、仲良く暮らす場所、それが留学生会館だった。ここで日本人は男性一人、女性一人の、圧倒的マイノリティ。おっと、管理人さん夫婦も日本人だった。

 

 というわけで、次回から、留学生会館での珍事件。。。様々な思い出を、順不同でつらつらと記して行きたい。

私が勤務医を辞めた理由

高齢出産をした私は、子供がこんなにも愛おしい存在だと初めて知った。

可愛くて可愛くて仕方が無かった。

これまで所属していた医局を離れ、それまで単身赴任だった主人の元へ行き、主婦業と母親業の毎日。私にとってはまるで、おままごとのような新鮮な日々だった。

出産前に途中まで書いていた論文を、我が子の横で仕上げた。今思い出しても、私の人生の中で、最高に幸せだった時期の一コマだ。

 

古い社宅の窓の外にはサクラの木が迫っていて、そこに数匹のセミが止まってうるさく鳴いていたのが印象に残っている。時折、熱を吹くんだ風が室内に入ってくる。風鈴が鳴った。文句のつけようのない幸せがそこにあった。

 

論文を仕上げ、我が子が生後6ヶ月になった所で医師業に戻った。

しばらく、他大学の医局に所属させてもらい、もちろん、当たり前に仕事はしたが、医師としては比較的のんびりと過ごさせてもらった。

我が子は特別物静かで、育てやすい子だった。保育園でも熱をしょっちゅう出す以外は、本当に何も問題にならなかった。

 

我が子が初めての誕生日を迎え、私は市中の病院の勤務医として戦闘員の一人になった。子育てより私自身のキャリアアップが大切だった。

心の中で呟いた。医師の子として生まれてきたのだから、この子が我慢するのは当たり前のこと。沢山の人が我が子の成長を手伝ってくれる。みんなに見守られながら育っていけば、何も問題はないはず。

 

 親の力も借りた。保育園はギリギリまで。託児所も複数契約した。有料で近所のお宅にお世話になったこともある。

保育園以外で一番使った託児所は、ネオンのきらめく街の24時間営業の施設。

息子は、保育園の後、保母さんに手を引かれて電車に乗り託児所へ行く。乗り物が好きだったので本当に助かった。歩き疲れて時折保母さんにだっこされていたようだ。夕飯は託児所のあるビル1階にあったコンビニのお弁当。500円を追加で支払うことで、託児所の職員が適当に買ってきて食べさせてくれる。後ろめたい気持ちがなかったわけではない。でも、他に選択肢がなかった。

 

私の体力がないのか、体調が少しずつおかしくなってきた。

当直の日はほとんど眠れない。当直明け、あえて朝食は食べない。ただでさえ眠いのに朝食を食べれば確実に動けなくなる。自販機で小さな牛乳を1パックだけ飲む。白衣のポケットに口臭予防のタブレットをいつも入れていた。自分の息が臭いのではないか、異常に気になった。

 

他科からの依頼に手が回るのは大抵、夕方以降になる。ようやく自分の科のノルマを終え、別の病棟へ行く。そこには一足早く、私と同じように紹介状で依頼を受けた別の科の医師がカルテ記入をしていた。

「こんにちわ。よく会いますね。」

「やあ、こんにちわ。本当ですね。」

「先生、働きすぎじゃないですか?」

「ははは。お互い様ですね。僕ね、家内に僕が自宅を出た時刻と帰宅した時刻を毎日記入させてるんです。」

「え? どうして?」

「残業記録は、規定以上は書けないでしょう? でも、明らかに本当の残業時間、過労死レベル超えてますよね。記録がなければ、何も証拠がないでしょ。だから、僕が死んだら、その記録を元に病院を訴えるように伝えてあるんです。賠償金で生きて行けってね。僕、死ぬんじゃないかって、最近本気で思うんですよ。体調、普通じゃないし」

私の体力が極端に弱いわけでもないようだった。

 

私たち日本の勤務医は、戦時中と全く変わらず、竹やり戦法で今も戦っている。

長時間勤務でヘロヘロの状態で手術を行うことを武勇伝にしてはいけない。それは患者を危険に晒す愚かなことでしかない。

このことについては、私じゃなくても、今や多くの医師がブログの中に問題点を書くようになったから、これ以上ここでその話をするのは止めておく。

 

託児所へは、私か主人のどちらかが迎えに行った。

ある日、10時半ごろだったと思う。いつものように夜の街の託児所に息子を迎えに行った。

私を見つけて喜んでくれる息子の様子を期待して。

 

息子はいつものように走ってはこなかった。

部屋の中を探すと、いた。わが子は壁にもたれて座っている。座っているだけじゃなくて、眠っている。左手には積み木が握られていた。

積み木遊びの途中で眠くなってしまったのだろう。

 

その姿を目にして涙がこぼれた。これが2歳児の生活だろうか。

朝早くたたき起こされて、慌ただしく朝食を食べ、保育園へ行き、居残りをし、託児所へ移動して、コンビニ弁当を食べ、託児所の壁にもたれて寝る。

子供は無力。何も文句を言わない。

 

日曜日。久しぶりに公園へ連れて行った。私のポケットにはPHSが入っている。電話が鳴りませんように。

手をつないで幸せを満喫している時、よそのお母さんが自分の子の名を呼んだ。わが子と同じ名前。(へぇ、同じ名前なんだ)、そう思ったその時、息子は私の手を振り払って、声のした方へ走って行った。

 

私は息子の世話を焼く大勢の保母さんの中の一人に過ぎなかった。

 

一番かわいい時期を、楽しい時間を一緒に過ごさずに、このまま他人の手に委ね続けていいのだろうか。

二度と戻ってこない貴重な時間。

 

忙しすぎて考える余裕もなかった。仕事を辞めることすら考えられないほど精神を病んでいた。「死」を身近に感じながら、それでも仕事をしていた。自分が辞めれば周りに迷惑をかける、本気でそんなバカげた妄想を抱いていた。目の前の圧倒されそうな仕事をこなすことで精一杯で、明日以降の事など考えられなかった。

 

周囲の説得もあり、ようやく私は仕事を辞めた。

 

ここから本当は少し複雑な話があるんだけれど、それは省略する。

 

息子と一緒に夕飯をゆっくり食べた。はじめて普通の親子みたいに夕方に手作りの夕飯を食べる。

食卓についてお茶碗を持った時、涙があふれ出して止まらなかった。

怖かった。こんなに幸せでいいのだろうかと。

ちょうど、終戦で日本に帰って来た兵隊さんが、戦死した仲間に申し訳ない気持ちになるのと同じかも知れない。

とにかく、申し訳なくて仕方がなかった。戦地から逃げてしまったことが。

「私だけ、こんなずるい思いをして、ごめんなさい」

それが、当時の私の心の病気だったのだと思う。

私の後にはちゃんと代わりの医師が赴任しているし、私よりきっとずっと立派な医師だったろうと思う。申し訳ないなんて、うぬぼれもいい所だ。それでも、当時は、本気で申し訳ないと思っていた。

 

今回はこの辺で。

 

 

■追記■ 2018年10月13日
この文章を書いてすでに4年が経とうとしています。

数年間更新なしで放置しているにも関わらず、毎日少なくない数の方々がこのページに辿りついています。

このブログを書き始めた頃は、医学部再受験についての記事が一番読まれていましたが、徐々に、「勤務医を辞めた理由」が読まれるようになり、最近は、ほぼこちらの数字のみが伸びています。

当時、医師が弱音を吐くことはほとんどなく、みっともないという風潮が強かったと思いますが、もはや医師の過重労働は周知のこととなってきました。ですから、医師や医学部生、医師を目指そうとしている高校生だけでなく、異分野の方々もこの記事を読まれているのではないかと想像しています。

 

さて、今回追記を書こうと思ったのは、その後の私自身について述べる責任があると感じたからです。

この記事は、飾らずに私自身について書いたものですが、時間が経つとまた違った見え方ができるようになります。苦しかったけれど、その時期が今の私を作っているのも事実で、悪い事ばかりではなかったと思えるようになりました。

 

燃え尽きて勤務医を辞めましたが、辞めた事で枯渇していたエネルギーも十分に補填することができ、しっかり自分自身と向き合う事でそれまで見えていなかった風景も見えるようになり、今は与えられた環境に感謝しながら医師業を続けています。

個人的にはハッピーな状態ですが、依然として勤務医の過重労働は継続している現状がありますので、その状況を改善していくための小さな活動を始めました。

今まさに溺れそうになっている方には、とにかく、誰かに相談するなり休みを取るなりして何とか生きながらえて下さいと申し上げたうえで、一方で、サバイバーが力を合わせて、この状況を改善していく仕組みを構築していく事も大切だと感じています。

 

医師は本来とてもやりがいのある職業です。患者さんに力をもらう事も少なくありません。様々な原因があると思いますが、医師が委縮してその能力を十分発揮できなくなりつつある現状は、医師、患者双方に取って大きなマイナスだと感じています。何とかその壁を打破したいと考えています。

 

 

 

 

 

私がやったアルバイト

私のアルバイト歴は長い。

今日は、昔を振り返ってアルバイトの思い出をずるずると引きずり出してみたい。

 

高校時代から始まっている。(暗黒の高校時代、アルバイトだけは親が許してくれた。友達と遊ぶのはダメでアルバイトはOKという、やっぱりちょっと変な親だったと思う。)

高校生と言ったら雇ってもらえないと思っていたのにOKだったので、逆に驚いた記憶がある。

 

一番最初にやったのは、スーパーの裏方。

少なくなった商品を商品棚に並べたり、綺麗に並べ直したりする仕事だ。

人の心理とは面白いもので、商品がたっぷりあると嬉しくなって人は商品をカゴに入れる。ところが、残り少ないと、「売れ残り」という意識が働いて買うのを躊躇する習性があるようだ。

こまめに商品を継ぎ足し、常に商品をたくさん並べる。

数人が商品を買うと、棚の前列だけぽっかり空間ができる。気が付いたら、手を棚の奥へ入れ、前方に商品をずらして「商品がたくさんありますよ」アピールをする。本当は空間が前方から後方にずれただけなんだけど。

 

それから、これは今では主婦の常識になっていると思うけど、新しい商品は後ろに並んでいる。ということは、お店の人がそのように並べている、ということだ。私は、高校生の時にこのことを学んでしまった。

 

コンビニはよく出来てるよね。特に飲み物なんか後ろから商品を入れるし、お客さんは、前からしか商品を取れない構造になっている。ついでに言うと、棚が少し傾斜していて、一本取ったら、元に戻しにくい。古い商品から新しい商品へ常に新陳代謝が自然とできるようなシステムを最初から導入しているわけだ。

 

人前に出るのが苦手だったので、この仕事は、私の初仕事としては良かったのではないかと思う。レジはいやだなと思っていた。裏方なら愛想悪くてもまあ、まだ許される。

 

次にやったのは、販売業。これも高校生の頃。

試食コーナーで、生ラーメンを売った。正月時期にはおせちを売った。空港で生きたクルマエビも売った。

最初は大きな声が出せなかったけれど、でも、お金もらうからね、売らないと申し訳ないでしょ。仕事だと思うと割り切れて、大きな声を出す。売れる。嬉しい。笑顔で大声が出る。当時の私の心の中は葛藤だらけだったけれど、人前では笑顔を作れる社会人になった。

 

大きな水槽にクルマエビを泳がせて、お客さんが買う時は、網ですくって”おがくず”を敷いた容器に入れる。そうすると、クルマエビは水がなくても数時間生きたままでいられる。学校の英語の点数は零点だったけど、普通の高校生が知らないことを私は知っていた(どうでもいいちゃあどうでもいい知識だけどね。。。)。

一尾400円ぐらいだったかなあ。誰も買わないだろうって思ってたけど、意外に売れた。まず、子供が寄ってくる。大喜び。で、親がしぶしぶ買う。網で掬う。物珍しさで、人が寄ってくる。水槽の周りは人だらけ。その中の一人がまた買ってくれる。

 

ラーメンを買ってくれるのは主婦。子供が試食しちゃって、お母さんが「あんたが食べるからよ。買わなくちゃいけないじゃない」と叱る場面もあった。今、そんな殊勝なお母さん方っているのかな。何だか押し売りしてるみたいでちょっぴり申し訳ない気がした。もしかしたら、それがお母さんの狙いだったのかも知れないね。「本当は買いたくないけど、仕方なく買ってあげるのよ」っていう売り子へのメッセージ。

 

エビになると、買ってくれたのは、おじさんが多かった。

女性は値段にシビアだけれど、男性は「珍しい物」が好き。値段はあんまり関係ない。商売人は良く知ってるね、クルマエビを空港で売るって目の付け所がいい。「家族への出張土産に」と言って、たくさん買ってくれた方がいた。

 

おせち料理は、当然、年が押し迫った時期に売る。

29日、30日、31日、活気あふれるスーパーの特設売り場で声を上げて売る。

31日夕方から値引いて、完売したのは、夜遅くだった。私は確か10時ごろ解放されたと思う。お店の人は、その後も、後片付けや売上額の計算とかで、終わるのは毎年、元旦の3時か4時だと聞いた。元旦はまた別の所でお正月のめでたい商品を売る予定で、結局、そこの家族の正月が来るのは、正月3が日を過ごしてからだったはずだ。正月の手伝いは、流石にお断りした。

 

高校生の時のアルバイトはこれくらい。

 

短大に入って、やったアルバイト。

大学の図書館での作業。これは、2年の春休みにやった。図書カードの整理とか、新しく入荷した図書の登録だとか。同級生3人で楽しくやった。

こんなに楽な仕事でお金をもらっていいのだろうか、と思った。

大好きだったブルーバックスシリーズ。新図書のカバーは全部外して捨てるので、図書館司書の方にお願いし、みんなで分けた。ほしかったのは、表紙にある三角形。10枚集めると、ブックカバーがもらえる。3人で2つずつブックカバーを手に入れたと思う。ブルーバックスのこのサービス、今でもやっているのだろうか?

 

お気に入りのアルバイトは、結婚式場のコンパニオン。

日曜日だとか休日に何度かやったが、時給が高く、もうびっくりした。ラーメン売ってたあのバイトは何だったの?という感じ。

料理を並べたり、花を飾ったり、ビールをついで回ったり、照明を調整したり、新郎新婦の入場時にドアを開けたりと、ちょっと嬉しいバイトだった。

日曜や祝日しかできなかったが、電話連絡が入ると嬉しかった。

 

最初は感動した。式がいよいよクライマックスに向かう。私は壁際に立って会場を見渡していたのだが、迂闊にも花嫁からお母さんへの手紙を聞いて感動で涙がこぼれた。

ところが、回を重ねるごとに、感動が薄れていく。

花嫁の手紙はどれも似たような内容で、まるで小学生の作文だ。

「私が病気の時、お母さんは・・・」

内心、またコレ? 結婚式への憧れが急速に薄れていく。やばい。このままでは自分の結婚式では、めちゃくちゃ冷めた花嫁になっちまいそうだ(結婚できるかどうかも不明だったけど)。このアルバイトはあまりやるべきではないと、そう思った。

 

大安祝日など、式が同会場に続けて3組入っていたりする。すると、式が終わると早く会場を綺麗にし、次に向けて短時間で準備をしなければならない。

ほどよくお酒も入り、式場に残って会話が弾んでいるお客さん達を、ニコニコほほえみながら、上手に追い出す。心の中は(早く!早く!)だ。

午前から午後にかけての仕事の場合、お弁当も出た。本当に割りのいい仕事だった。でも、これは若い頃にしかできない仕事だろう。

このバイトには、7~8回行っただろうか。

 

結婚式と言っても、すべてが幸せな結婚式ってわけじゃないことも学んだ。

会場の裏で、綺麗なドレスを着た女性軍団が、しきりに花嫁の悪口を言っているのを聞いて、世の中にはいろんな物語があるんだなと思った。

 

短大1年の夏休みにやったのが、お菓子工場でのアルバイト。

ベルトコンベアーの上を出来上がったお菓子が流れていく。それを点検しながら、チョコレートがかかっていない菓子や崩れたもの、形がおかしいものを捜して外していく。コンベアーの前に座っているのだが、部屋の温度が大変低い。働く人のためではなく、出来上がっていくお菓子のための部屋だから、寒いのは仕方がないのだが、じっと座っての仕事は身体の芯まで冷える。

夏だというのに、毎日が冬。おまけに、おやつとして、毎日出来たてのアイスクリームなどをご馳走になる。私はその夏、3kgも太った。

出来立ての最中アイスはそれはそれは美味しい。最中がパリッとしていて、私が知っている最中アイスとは全く別物だった。

 

浪人中。運動も兼ねて、新聞配達をやった。自転車で数十件を回る。(最初の日にバイクを使ったら、見事に転倒し、ズボンが太もも当たりから大胆に裂けた。それ以来私はバイクに乗ったことがない。)

新聞に公告を挟む。最初はそれだけでもとても時間がかかった。慣れると、面白くなる。自転車の籠に新聞を5部ずつ右、左、右、左と立てて入れる。

雨の日は大変。新聞に公告を挟んで、それを1件ごとにビニール袋に入れる。普通は4時半で間に合うけれど、雨の日は3時半起き。結構疲れる。でも、朝食は美味しい。

 

さて、大学に入ってから。

私の場合、仕送りゼロだったから、入学と同時にアルバイト探し。

最初にやったのは、検査センターでのスピッツ番号書き。

時給千円、夕飯つきで毎日3時間。贅沢はできないけれど、何とか生きていく目途は立った(自治寮に住んでいたから月々の寮費は2,000円ぐらいだったと思う)。

 

医学部学生と言えば、塾、そして家庭教師。

格段に時給が上がった。そして、格別楽しかった。

 

塾では、中学生に数学、英語を教えた。学生たちには一人一人いろんな物語があった。

 

中学生相手の 英語の授業では、私は友人のフィリピン人を連れて行ったことがある。どんな話をしたかもう忘れちゃったけど、真面目な授業より、英語に興味を持ってもらう仕掛けばかりしていたように思う。テキストは塾が準備していくれていたけど、あまり真面目に使わなかった。

好き勝手にさせて頂いたのは有難かったと思う。

変な授業ばかりしていたけど、私のクラスは生徒が多かった。楽しければ成績が上がるかどうかは保障はしない。でも、どうせなら面白い授業の方が、のちのち、勉強に対する姿勢にいい影響を与えるのではなかろうか。

 

そのうち、塾長のお子さんを含め、小学生数名(1年生と2年生)に英語を教えてくれと、塾長から頼まれた。これまで英語を学習したことのない初心者相手の授業だ。

遊びながらの英語学習。ゲームや歌をやった。

インディアンの歌は面白かった。

「One little, two little, three little Indians,・・・」というあれだ。

数を教えた後に、歌を使って声に出させる。

これを、最初はゆっくり歌う。何度も一緒に歌っていると、子供たちはすぐに覚える。そして段々速く歌っていくと、子供たちはもう大興奮! 

 

家庭教師。

最初の生徒さんは、八百屋さんの娘さんだった。途中から現金が、大根や玉ねぎ、果物に変化していった。

お医者さんの娘さんを教えるようになって、トントン拍子に生徒さんが増えた。奥様ネットワーク、恐るべし。

最初は、塾経由で家庭教師を請け負っていた。時給4,254円とかって、とっても中途半端な値段だったと思う。その後、塾長の奥様と生徒の奥様との間で何かごちゃごちゃあったらしく、そこから直接契約に切り替わった。お医者さんの奥様ってどんぶり勘定だなぁと思った記憶がある。面倒だから、一回(2時間)1万円で引き続きお願いしますって言われた。最初にお支払頂いた封筒、開けてみたら1枚少ない。まあ、直接契約に切り替えてから時給が上がったのでいいか、と思って黙っていた。

コンサートのチケット頂いたり、パリ旅行のお土産を頂いたりと、お給料以外に結構いい思いもさせて頂いていたし。

3回に1回くらい間違ってて、多い時もあったし少ない時もあった。一度、一枚多いです、と申し出たら、「あら、まあ、でも、どっちでも構わないから、もう、取っておいてください」とかって言われて、上流社会の人は私なんかと根本的に違うと心から感心したものだ。どんぶり勘定の方に、きっちり計算を行って頂くのは、結構ストレスになるんじゃないかと思ったし、どうも、わかんなくなった時は、上乗せして下さっていたようなので、ご厚意に甘えることにした。一回一万円という値段は、お金があるからではなく、計算が面倒だったからなのだと後になって思った。もちろん、私への気遣いがあったことは間違いないが。

 

これは本当に助かった。

いい加減、大学の勉強がきつくなってきていたので、なるべく率のいい仕事が必要だったから。

1対1は面白い。愛情も湧く。みんな合格してくれたのが、ラッキーだったし何より私も幸せだった。

 

最後の生徒さんは、私自身の国家試験間際まで教えた。幸い私も何とか医師免許を取得できたから良かったものの、これで落ちていたら、洒落にならなかった。笑顔で教えながら、実のところ、心の中は相当焦っていたのを覚えている。

私が教えた生徒さん達は、今、何をしているんだろう?

 

つらつらと思いだしながらアルバイト歴を記してみた。

結構色んな職業を経験している。色んな経験をするためにアルバイトをしたわけではなく、いつも、お金を得るために働いてきた。必要に迫られて色んな職業をちょっとずつ経験してきたのだけれど、結局、全部面白かった。

 

そういえば、短大卒業してから就職までの春休み、2日間だけやったバイトがある。小学生教材の訪問販売だ。一軒一軒、子供のいそうな家庭を訪問して教材を売る。私にその才がなかったのかも知れないが、2日間やっても一つも売ることができず、本来は1か月近く働く約束だったが、お金をもらわずに辞めた。ノルマを達成できないことは、見えていた。これだけは、ちっとも面白くなかった。

 

まとめてみる。

流通産業(スーパー裏方)、商売(ラーメンその他販売)、接客業(結婚式コンパニオン)、製造業(お菓子工場)、事務(図書館)、肉体労働系(新聞配達)、教育産業(塾、家庭教師)、番外編で訪問販売業。

 

こんな色んなバイトした医者も珍しいんじゃないか。

 

今日はこの辺で。