おっさん化したおばさんの独り言

おっさん化したおばさんのとりとめの無い独り言です

私がやったアルバイト

私のアルバイト歴は長い。

今日は、昔を振り返ってアルバイトの思い出をずるずると引きずり出してみたい。

 

高校時代から始まっている。(暗黒の高校時代、アルバイトだけは親が許してくれた。友達と遊ぶのはダメでアルバイトはOKという、やっぱりちょっと変な親だったと思う。)

高校生と言ったら雇ってもらえないと思っていたのにOKだったので、逆に驚いた記憶がある。

 

一番最初にやったのは、スーパーの裏方。

少なくなった商品を商品棚に並べたり、綺麗に並べ直したりする仕事だ。

人の心理とは面白いもので、商品がたっぷりあると嬉しくなって人は商品をカゴに入れる。ところが、残り少ないと、「売れ残り」という意識が働いて買うのを躊躇する習性があるようだ。

こまめに商品を継ぎ足し、常に商品をたくさん並べる。

数人が商品を買うと、棚の前列だけぽっかり空間ができる。気が付いたら、手を棚の奥へ入れ、前方に商品をずらして「商品がたくさんありますよ」アピールをする。本当は空間が前方から後方にずれただけなんだけど。

 

それから、これは今では主婦の常識になっていると思うけど、新しい商品は後ろに並んでいる。ということは、お店の人がそのように並べている、ということだ。私は、高校生の時にこのことを学んでしまった。

 

コンビニはよく出来てるよね。特に飲み物なんか後ろから商品を入れるし、お客さんは、前からしか商品を取れない構造になっている。ついでに言うと、棚が少し傾斜していて、一本取ったら、元に戻しにくい。古い商品から新しい商品へ常に新陳代謝が自然とできるようなシステムを最初から導入しているわけだ。

 

人前に出るのが苦手だったので、この仕事は、私の初仕事としては良かったのではないかと思う。レジはいやだなと思っていた。裏方なら愛想悪くてもまあ、まだ許される。

 

次にやったのは、販売業。これも高校生の頃。

試食コーナーで、生ラーメンを売った。正月時期にはおせちを売った。空港で生きたクルマエビも売った。

最初は大きな声が出せなかったけれど、でも、お金もらうからね、売らないと申し訳ないでしょ。仕事だと思うと割り切れて、大きな声を出す。売れる。嬉しい。笑顔で大声が出る。当時の私の心の中は葛藤だらけだったけれど、人前では笑顔を作れる社会人になった。

 

大きな水槽にクルマエビを泳がせて、お客さんが買う時は、網ですくって”おがくず”を敷いた容器に入れる。そうすると、クルマエビは水がなくても数時間生きたままでいられる。学校の英語の点数は零点だったけど、普通の高校生が知らないことを私は知っていた(どうでもいいちゃあどうでもいい知識だけどね。。。)。

一尾400円ぐらいだったかなあ。誰も買わないだろうって思ってたけど、意外に売れた。まず、子供が寄ってくる。大喜び。で、親がしぶしぶ買う。網で掬う。物珍しさで、人が寄ってくる。水槽の周りは人だらけ。その中の一人がまた買ってくれる。

 

ラーメンを買ってくれるのは主婦。子供が試食しちゃって、お母さんが「あんたが食べるからよ。買わなくちゃいけないじゃない」と叱る場面もあった。今、そんな殊勝なお母さん方っているのかな。何だか押し売りしてるみたいでちょっぴり申し訳ない気がした。もしかしたら、それがお母さんの狙いだったのかも知れないね。「本当は買いたくないけど、仕方なく買ってあげるのよ」っていう売り子へのメッセージ。

 

エビになると、買ってくれたのは、おじさんが多かった。

女性は値段にシビアだけれど、男性は「珍しい物」が好き。値段はあんまり関係ない。商売人は良く知ってるね、クルマエビを空港で売るって目の付け所がいい。「家族への出張土産に」と言って、たくさん買ってくれた方がいた。

 

おせち料理は、当然、年が押し迫った時期に売る。

29日、30日、31日、活気あふれるスーパーの特設売り場で声を上げて売る。

31日夕方から値引いて、完売したのは、夜遅くだった。私は確か10時ごろ解放されたと思う。お店の人は、その後も、後片付けや売上額の計算とかで、終わるのは毎年、元旦の3時か4時だと聞いた。元旦はまた別の所でお正月のめでたい商品を売る予定で、結局、そこの家族の正月が来るのは、正月3が日を過ごしてからだったはずだ。正月の手伝いは、流石にお断りした。

 

高校生の時のアルバイトはこれくらい。

 

短大に入って、やったアルバイト。

大学の図書館での作業。これは、2年の春休みにやった。図書カードの整理とか、新しく入荷した図書の登録だとか。同級生3人で楽しくやった。

こんなに楽な仕事でお金をもらっていいのだろうか、と思った。

大好きだったブルーバックスシリーズ。新図書のカバーは全部外して捨てるので、図書館司書の方にお願いし、みんなで分けた。ほしかったのは、表紙にある三角形。10枚集めると、ブックカバーがもらえる。3人で2つずつブックカバーを手に入れたと思う。ブルーバックスのこのサービス、今でもやっているのだろうか?

 

お気に入りのアルバイトは、結婚式場のコンパニオン。

日曜日だとか休日に何度かやったが、時給が高く、もうびっくりした。ラーメン売ってたあのバイトは何だったの?という感じ。

料理を並べたり、花を飾ったり、ビールをついで回ったり、照明を調整したり、新郎新婦の入場時にドアを開けたりと、ちょっと嬉しいバイトだった。

日曜や祝日しかできなかったが、電話連絡が入ると嬉しかった。

 

最初は感動した。式がいよいよクライマックスに向かう。私は壁際に立って会場を見渡していたのだが、迂闊にも花嫁からお母さんへの手紙を聞いて感動で涙がこぼれた。

ところが、回を重ねるごとに、感動が薄れていく。

花嫁の手紙はどれも似たような内容で、まるで小学生の作文だ。

「私が病気の時、お母さんは・・・」

内心、またコレ? 結婚式への憧れが急速に薄れていく。やばい。このままでは自分の結婚式では、めちゃくちゃ冷めた花嫁になっちまいそうだ(結婚できるかどうかも不明だったけど)。このアルバイトはあまりやるべきではないと、そう思った。

 

大安祝日など、式が同会場に続けて3組入っていたりする。すると、式が終わると早く会場を綺麗にし、次に向けて短時間で準備をしなければならない。

ほどよくお酒も入り、式場に残って会話が弾んでいるお客さん達を、ニコニコほほえみながら、上手に追い出す。心の中は(早く!早く!)だ。

午前から午後にかけての仕事の場合、お弁当も出た。本当に割りのいい仕事だった。でも、これは若い頃にしかできない仕事だろう。

このバイトには、7~8回行っただろうか。

 

結婚式と言っても、すべてが幸せな結婚式ってわけじゃないことも学んだ。

会場の裏で、綺麗なドレスを着た女性軍団が、しきりに花嫁の悪口を言っているのを聞いて、世の中にはいろんな物語があるんだなと思った。

 

短大1年の夏休みにやったのが、お菓子工場でのアルバイト。

ベルトコンベアーの上を出来上がったお菓子が流れていく。それを点検しながら、チョコレートがかかっていない菓子や崩れたもの、形がおかしいものを捜して外していく。コンベアーの前に座っているのだが、部屋の温度が大変低い。働く人のためではなく、出来上がっていくお菓子のための部屋だから、寒いのは仕方がないのだが、じっと座っての仕事は身体の芯まで冷える。

夏だというのに、毎日が冬。おまけに、おやつとして、毎日出来たてのアイスクリームなどをご馳走になる。私はその夏、3kgも太った。

出来立ての最中アイスはそれはそれは美味しい。最中がパリッとしていて、私が知っている最中アイスとは全く別物だった。

 

浪人中。運動も兼ねて、新聞配達をやった。自転車で数十件を回る。(最初の日にバイクを使ったら、見事に転倒し、ズボンが太もも当たりから大胆に裂けた。それ以来私はバイクに乗ったことがない。)

新聞に公告を挟む。最初はそれだけでもとても時間がかかった。慣れると、面白くなる。自転車の籠に新聞を5部ずつ右、左、右、左と立てて入れる。

雨の日は大変。新聞に公告を挟んで、それを1件ごとにビニール袋に入れる。普通は4時半で間に合うけれど、雨の日は3時半起き。結構疲れる。でも、朝食は美味しい。

 

さて、大学に入ってから。

私の場合、仕送りゼロだったから、入学と同時にアルバイト探し。

最初にやったのは、検査センターでのスピッツ番号書き。

時給千円、夕飯つきで毎日3時間。贅沢はできないけれど、何とか生きていく目途は立った(自治寮に住んでいたから月々の寮費は2,000円ぐらいだったと思う)。

 

医学部学生と言えば、塾、そして家庭教師。

格段に時給が上がった。そして、格別楽しかった。

 

塾では、中学生に数学、英語を教えた。学生たちには一人一人いろんな物語があった。

 

中学生相手の 英語の授業では、私は友人のフィリピン人を連れて行ったことがある。どんな話をしたかもう忘れちゃったけど、真面目な授業より、英語に興味を持ってもらう仕掛けばかりしていたように思う。テキストは塾が準備していくれていたけど、あまり真面目に使わなかった。

好き勝手にさせて頂いたのは有難かったと思う。

変な授業ばかりしていたけど、私のクラスは生徒が多かった。楽しければ成績が上がるかどうかは保障はしない。でも、どうせなら面白い授業の方が、のちのち、勉強に対する姿勢にいい影響を与えるのではなかろうか。

 

そのうち、塾長のお子さんを含め、小学生数名(1年生と2年生)に英語を教えてくれと、塾長から頼まれた。これまで英語を学習したことのない初心者相手の授業だ。

遊びながらの英語学習。ゲームや歌をやった。

インディアンの歌は面白かった。

「One little, two little, three little Indians,・・・」というあれだ。

数を教えた後に、歌を使って声に出させる。

これを、最初はゆっくり歌う。何度も一緒に歌っていると、子供たちはすぐに覚える。そして段々速く歌っていくと、子供たちはもう大興奮! 

 

家庭教師。

最初の生徒さんは、八百屋さんの娘さんだった。途中から現金が、大根や玉ねぎ、果物に変化していった。

お医者さんの娘さんを教えるようになって、トントン拍子に生徒さんが増えた。奥様ネットワーク、恐るべし。

最初は、塾経由で家庭教師を請け負っていた。時給4,254円とかって、とっても中途半端な値段だったと思う。その後、塾長の奥様と生徒の奥様との間で何かごちゃごちゃあったらしく、そこから直接契約に切り替わった。お医者さんの奥様ってどんぶり勘定だなぁと思った記憶がある。面倒だから、一回(2時間)1万円で引き続きお願いしますって言われた。最初にお支払頂いた封筒、開けてみたら1枚少ない。まあ、直接契約に切り替えてから時給が上がったのでいいか、と思って黙っていた。

コンサートのチケット頂いたり、パリ旅行のお土産を頂いたりと、お給料以外に結構いい思いもさせて頂いていたし。

3回に1回くらい間違ってて、多い時もあったし少ない時もあった。一度、一枚多いです、と申し出たら、「あら、まあ、でも、どっちでも構わないから、もう、取っておいてください」とかって言われて、上流社会の人は私なんかと根本的に違うと心から感心したものだ。どんぶり勘定の方に、きっちり計算を行って頂くのは、結構ストレスになるんじゃないかと思ったし、どうも、わかんなくなった時は、上乗せして下さっていたようなので、ご厚意に甘えることにした。一回一万円という値段は、お金があるからではなく、計算が面倒だったからなのだと後になって思った。もちろん、私への気遣いがあったことは間違いないが。

 

これは本当に助かった。

いい加減、大学の勉強がきつくなってきていたので、なるべく率のいい仕事が必要だったから。

1対1は面白い。愛情も湧く。みんな合格してくれたのが、ラッキーだったし何より私も幸せだった。

 

最後の生徒さんは、私自身の国家試験間際まで教えた。幸い私も何とか医師免許を取得できたから良かったものの、これで落ちていたら、洒落にならなかった。笑顔で教えながら、実のところ、心の中は相当焦っていたのを覚えている。

私が教えた生徒さん達は、今、何をしているんだろう?

 

つらつらと思いだしながらアルバイト歴を記してみた。

結構色んな職業を経験している。色んな経験をするためにアルバイトをしたわけではなく、いつも、お金を得るために働いてきた。必要に迫られて色んな職業をちょっとずつ経験してきたのだけれど、結局、全部面白かった。

 

そういえば、短大卒業してから就職までの春休み、2日間だけやったバイトがある。小学生教材の訪問販売だ。一軒一軒、子供のいそうな家庭を訪問して教材を売る。私にその才がなかったのかも知れないが、2日間やっても一つも売ることができず、本来は1か月近く働く約束だったが、お金をもらわずに辞めた。ノルマを達成できないことは、見えていた。これだけは、ちっとも面白くなかった。

 

まとめてみる。

流通産業(スーパー裏方)、商売(ラーメンその他販売)、接客業(結婚式コンパニオン)、製造業(お菓子工場)、事務(図書館)、肉体労働系(新聞配達)、教育産業(塾、家庭教師)、番外編で訪問販売業。

 

こんな色んなバイトした医者も珍しいんじゃないか。

 

今日はこの辺で。