おっさん化したおばさんの独り言

おっさん化したおばさんのとりとめの無い独り言です

私が再受験をして医師になった理由

小学生まで優等生だった私は、中学生からとても立派な反抗期に入り、どろどろの高校生活を送り、実に長い間、暗~い生活を送った。

 

母親から発せられる相矛盾する要求に混乱し、中学生になって、必死に送ったSOSはすべて母を怒らせる材料にしかならず、小学生までの「素直な良い子」でなくなった私は反逆児として扱われた。

勉強したくても勉強できない状態が続いた。心の中で自分の将来に対する不安と焦りがあるのだが、母親の発する「勉強しろ」は、常に「勉強させてたまるか」というアンビバレントなメッセージを含んでおり、私を追い詰めた。母は幼い頃、勉強したくても勉強させてもらえず、進学も諦めたという過去を持つ。

 

何とか暗黒の時代をやり過ごし、医療系短大に入学した私は、入学式の日に突然「医学部に行きたい」と思ってしまう。

ようやく落ち着いて勉強できる精神状態になり、受験に対する不燃焼感が大きかったのも一つの理由だろう。

そこから母との新たな戦いが始まった。

 

まさか反対されるとは思っていなかった。

母は極度の「見捨てられ不安」を持ち、どういうワケか「娘の医学部入学」=「見捨てられる」の構図があったようだ。私には当時その心理が理解できていなかったので、母のパニック状態にとにかく驚いた。世間体を大切にしプライドの高い母が、娘の医学部受験に猛反対する、その理由が全く理解できなかった。

 

短大在学中、退学する、させない、で話が折り合わず、3年間を悶々と過ごし、二人の意見の中間点である「卒業後再受験に向けて受験勉強する」で決着したはずだった。

が、そんなに甘くはなかった。

 

母は、私の短大卒業を前にして、「再受験は何が何でも許さない」宣言をした。

親と子の約束なんて、母にしてみれば、守る義務のない「その場しのぎの対応」の一つでしかなかった。

 

私の中では、「医学部へ行く」夢は、時には遠い雲の上に逃げていき、時には手が届くところまで降りてきた気がして、そんな思いが行ったり来たりの数年間だった。

在学中にはコメディカルとして生きがいを見つけることも真剣に模索した。しかし、医学について勉強すればするほど、自分で診断したい、自分で治療方針を立てたい、という願望は大きくなるばかりだった。

 

それでも、ずっと自分に問い続けてきた。なぜ、医師なのかと。年月が経てば経つほど、医師になる年齢を考え落ち込んだ。これだけ出発が遅れてしまった以上、私はもう諦めて、代わりに若い人が医学部に行く方がずっと社会的にはいいのではないかと。

 

結局、私は、2年間働いてお金を貯めた後、仕事を辞め予備校に通った。予備校初日は私はもう嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。大学に落ち下を向いて足早に校舎に入っていく新予備校生とは180度反対の心境だったと思う。

 

医学部合格の電報を喜んでくれたのはただ一人、それを運んでくれた郵便屋さんだけだった。母から「おめでとう」の言葉はなかった。それどころか、私の目も見ず一言も口をきいてくれなかった。

 

母はやっぱり私を医学部に入学させたくなかった。

私は思い切りやった満足感があったので、母が許さないなら仕方がないと思っていた。

入学申し込み書類提出の締め切り前日に、ようやく入学許可が下りた。半分諦めかけていた私は速達で書類を大学に送り、夢の医学部生になった。日頃存在感のない父が母を説得してくれたようだった。

 

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さて、ずっと悩み続けた私に、最終的に仕事を辞め再受験へと背中を押してくれたものの一つに、反面教師の存在がある。

今でも、私は彼に出会えたことに心から感謝している。

 

短大3年になると、病院実習がある。

そこで、とっても変わった先輩に出会った。

「ここの医者は馬鹿ばっかり。オマエらはあんな馬鹿にだけはなるなよなぁ」

いつも不機嫌で、医者の悪口が口癖だった。

「ここの病院、医者はみんな馬鹿。頭悪すぎる。まともな奴、一人もおらん。Kも基本的な知識ゼロだし、Mは論外。何回教えてやってもわからんしなあ。ホント、馬鹿相手は疲れるわ」軽蔑したような笑いを浮かべながら言う。

 

学生だった私には、その方がどれほど優秀だったのか、わからない。しかし、同僚からも相手にされていなかったし、彼が文句を言っていた「医師に教えてあげたこと」は重箱の隅をつついたような、大きな目で見ればどうでもいいことにしか思えなかった。それに医師を呼び捨てにする病院スタッフは彼ぐらいしかいなかった。少なからず医師に反感を持つコメディカルはいると思う。中には、その反感を自己向上に役立てている人もいるので私は一概にそのことを悪いとも思わない。しかし、ここまで来ると見苦しい。

 

感じの悪い人。できれば離れておきたい人。それが私の印象だった。

 

ある時、同級生とその先輩の話題になった。

友人が言った。

「あの人、医学部に行きたかったらしいよ。でも行けなかったんだって。みっともないよね、医者になりたいならなればいいじゃんね。できない癖に医師を馬鹿にするの恥ずかしいよね」

友達数人は彼のことを笑った。

その時、私は雷に打たれたようなショックを受けた。笑う余裕なんてない。自分の将来像を見た気がしてゾッとした。

 

「医学部に行きたかったんだけど、親に反対されてできなかった」

 

そんな言い訳を言わずにおられるだろうか。

みっともない言い訳だとわかっていても、果たして言わずにおられるだろうか。

医師を小馬鹿にしたような態度を取ってしまわないだろうか。

 

私は、母のことを将来ずっと恨むことになるだろう。

それも悲しいと思った。

だったら、反対を押し切ってでも、やりたいことをやるべきだ。

 

結局、母を恨むことにはなったんだけどね。医学部に進学したことが、どういうわけか私の負い目になってしまい、その後、幾度かあった大切な分岐点で、母の主張を優先してしまった。母のアドバイス(命令)はろくでもないものばかりだった。

 

しかし、もしもあの時、医学部進学を諦めていたなら、私はもっとずっと母を恨んでいたに違いない。

 アイデンティティに関わる根本的な主張を押し通した、そのことは私の 自己肯定感のベースになっている。つい否定的になってしまいがちな自己を何とかつなぎ止める大きな礎になっている。

 

人生は短い。

本当に短い。

この世に生を受け、学校へ行き、社会人になり、年老いて死んでいく。

 

大きな後悔、小さな後悔、本当はいろいろあるけれど、これだけは自分の主張を通して良かったと今でも思っている。

まだ大学授業料がずっと安かった時期だった。それはラッキーだった。

 

 貧乏学生の楽しかった話も機会があれば披露したいと思う。

今日はこの辺で。