おっさん化したおばさんの独り言

おっさん化したおばさんのとりとめの無い独り言です

狂気と正気の狭間で その2

担当医師から厳しい説明を受け、死期を間近に感じるようになって、その不安と恐怖に押しつぶされるであろうと心配していたのに、意外にも母はしっかり耐えている。これまでの母からは想像できないほど、鷹揚に構えている。

冷たかった娘が、ぎこちないとは言え優しくなった事、病気の手強さを知って逆に「わからない」不安から解放されたこと、あるいは、私を母自身の延長ではなく、他人として見ることができるようになったこと(憶測だけれど)、など複合的な理由が考えられる。死の恐怖よりも疾病利得が上回っているだけなのかもしれない。

 

治療のレジュメに使われた大量のステロイド、不眠には悩まされていたようだが、一方で、多幸感の恩恵も受けた。今までにないキャラクターを見て驚いたと同時に嬉しかった。楽しそうな顔、おどけた顔、笑い声、薬剤によって引き出されたとは言え、そういうキャラクターがどこかに眠っていたはずである(ちなみに、ステロイドが抜けてからしばらくは、その反動が続いた)。

そういう幸せな顔を見た時、もっと早い段階で母を苦しめ続けた(そして私も少なからず振り回されてきた)不安、恐怖を軽減させてあげられなかったものかと思った。

 

医師でありながら、母の境界性人格障害(Borderline Personality Disorder :BPD)を見抜くことができず、長年放置してきた。書物を頼りに診断するならば、母は高機能型境界性人格障害だったと言える。患者さんを診る時には、精神構造までそれなりに把握できるというのに、自分の親に対してはそれができなかった。むしろ、10代の一番苦しかった時期に、母の異常性を一番理解していたように思う。約10年間、母から離れて過ごした事で、適当にガス抜きができた私は、母を「多少神経質で愛情が強すぎた困った母親が年を重ねて精神的にも成熟してきた」と捉えた。実はほとんど変わっていなかった。手元から一旦手放した子供をどうやって手元に引き戻すか、母は私の性格を知り尽くしており、自分の思うように操るのは簡単な事だった。

結局、私の人生、実に長い期間を母の影響を受けながら(逃げているつもりが結果的には全然逃げきれていない)生きてきたことになる。もしかしたら私自身も一時期BPDだった可能性がある。

 

さて、BPDについての書物であるが、今の流行りは、その周囲にいる人々にスポットを当てたものが主流である。そのような困った人といかに付き合うか、いかに逃げるか、いかに対決するか、といった。

BPDの人に振り回されて困っている人達がどれだけ多いかという事なのかも知れない。そして、実際に、対処法としてはとりあえず役に立つ事が書いてある。

 

しかし、そういう本をいくら読んでも払拭できない何かが私の中にあった。これは根本的な解決なんだろうか、という事だ。他人ならいい。面倒に巻き込まれないよう上手にすり抜けていく事は処世術としてはとても大事だろう。

 

BPD本人はどうなのだろう。本人の不安や恐怖心は放置したまま? 

 

いつだったか、母が呟いた事があった。

「私はどうして人が気が付かないような些細な事に気が付いてしまうんだろう。鈍感な人が羨ましい。気づかずに済むなら、こんなに苦しい思いをしなくて済むのに」

 

BPDは、「身体の表面を覆う皮膚がない」と表現される事がある。知覚神経がむき出しになっていて、物が当たったり冷たい風が吹いただけで、普通の人の何千倍という苦痛が彼らを襲う。感受性が強いと言えば聞こえがいいが、程度問題である。アレルギー体質の心理バージョンと言ってもいいかも知れない。スギ花粉にアレルギーのある人はスギ花粉の時期になると大変な事になる。アレルギーのない人にしてみれば花粉が飛んでるかなんて全くわからないというのに。花粉症の症状は一目瞭然だが、心の中の事は外からちっとも見えないからなかなか他人に理解してもらうのは難しいだろう。

ちょっとした言葉に母から予想だにしない反応が返ってきていたのには、ちゃんと理由があったのだ。母にしてみれば強すぎる刺激を振り払う反応だったに過ぎない。一方、何もわからない子供だった私は、母の反応に混乱するばかり。本当にいい迷惑だった。

 

BPDは人口の2%、50人に1人という人数の多さである(文献により、また年齢により差がある)。本人はきっと周囲が思っている以上に苦しんでいるに違いない。プライドの高さから「助けて」と言えない。自分に自信がないから子供に服従を強いる。そして、恐らく、辛い過去を持つ。

不完全な人間が必死に子育てをしてきた(もちろん完全な人間なんていない)。方向が間違っている事に気づかず、子供を傷つけ、自分が傷つく。思うようにならないからパニックに陥る。それでも他人に相談できない。負のスパイラル。

頑張れば頑張るほど北風は太陽になれない。ベクトルの方向が間違っている事を早い段階で誰かが、あるいは社会が教えてくれれば、親も子も共に救われるのに。

 

Borderline Personality Disorder を検索してみると、米国ではそれなりの数の機関がその治療やサポートに力を入れているのがわかる。もう少しすれば、日本でももっと積極的なBPDへの取り組みが一般的になるのではないかと期待している。同時に、BPDについての知識と、教育や治療により障害自体を克服できるのだということが理解されれば、BPDに対する偏見も減り、医療機関への敷居ももっと低くなり、無用な苦労(本人も周囲も)を避けられるのではないかと思う。

 

最後に、一か所だけであるが、米国の医療機関での取り組みを紹介したい。

下に 示したホームページでは、BPDに苦しむ人達の生の声を聴くことができる。日本語版がないのが残念であるが(当然と言えば当然だが)、頑張って彼らの声に耳を傾けてほしい。少し見方が変わってくるのではないだろうか(BPD Experience のページで障害者本人の体験談を含め多くの示唆に富む解説を聞くことができる)。

 

 


Borderline Personality Disorder Resource Center | NewYork-Presbyterian Hospital

 

The BPD Experience | Borderline Personality Disorder Resource Center

 

狂気と正気の狭間で その1

今回の記事は、重いです。気分が落ち込んでいる人は、どうぞ読まないで。

 

******

 

十代の頃から、何かと大切な場面で私の前に立ちはだかり行く手を阻んできた(と、私が感じていた)母が、白血病を発症した。見捨てるわけにも行かず、かと言って優しくもできず、私の心はまるでジェットコースターのようなアップダウン。今に始まったことではないとは言うものの、母の精神状態に振り回される何とも落ち着かない状況が続いていて、それでも何とか現在はいい方向に向かっている(?)。母を失ったあと、私の気持ちがどちらの方向に動くのかさっぱり予想がつかないけれど、今は、何も考えず、母と一緒に戦っていきたいと思っている。

 

できれば、なるべく明るい情報をお伝えすることを心がけて行きたい(けど、重い)。

 

私は精神科医ではないし、ましてや肉親の事なので、多分に憶測と偏見が含まれる。そこを差し引いて読んでいただきたいが、母娘の関係で悩んでいる人のうち、一部の人に対し、小さなヒントの一つでも提供できれば幸いである。

 

親子の確執についての書物は今や世の中に氾濫していて、体験記もとても多い。私もかなりの数を読んできた。あんな家庭環境の中でよく著者は生き延びて来られたな、と思うほど壮絶な人生を歩んだ人も実際に存在するし、そういう個人的な事情をさらけ出してくれてありがとう、という気持ちでいっぱいである。身近な人への影響を考えると「書く」という行為は大変リスキーである。

泣きながら読んだ書物も多い。学術的な書物であれ、個人的な体験記であれ、泣きながらでなければ読めない、という状況は、読んでいる本人が苦しみの渦中にあるという一つの指標ではないだろうか。悩んでいなければ、医師やカウンセラーなどの専門家は別として、まずは、あえてそういう書物を多数手に取ることをしないだろう。

初めは読むのが苦しくても、次第に、自分の中にどっかと腰を下ろしてアレコレ変な指示を出してくる親を追い出し、自分を客観視できるようになってくる。そこまでが第一段階。実際には、本を読むだけでなく、カウンセリングを受けながら自分の過去を振り返る作業をした。そして、時間はかかるが、やがて親の事も客観視できるようになる、、、かもしれない。ただし、必ずしもできなくてもいいと思っている。自分の将来をいい方向に持っていくこと、配偶者や子がいるなら、その関係を良好に持っていく努力をすること、それが何より大切であるはずだからだ。

 

親のことを理解したいと心の奥底で願いながらも、残念ながら実現しない事もあるだろう。あるいは、理解したくもないと思う人も多いと思う。それはそれでいいと思う。

 

親子の関係は無数にあって、それぞれが特別であり、多くの愛憎の物語がある。命がけで逃げるべき状況もあるだろう。過酷な状況下にある人に対して、特に、まだ親の監督下にある人に対して、私は「とにかく生き延びてください」としか言いようがない。

 

そういう前置きをした上で、息苦しさを感じながらも、それでも比較的恵まれた状況下にあった者の体験談として参考にしていただければいいと思う。

 

 母が白血病を発症してから、私は「義理」で母に優しくしてきたけれど、それは何とか母の事を客観的に理解したい、という都合の良い思いからだった。愛する親に対して、というよりも、タイマーのついた観察対象者として接してきた気がする。最初はとてもぎこちなかった。母に接しながらそういう冷めた自分に対し、罪悪感もあり、同時に強烈な自己嫌悪感(自分自身に対する恐怖心、という方が妥当かもしれない)もあった事を告白する。母がおかしかったのではなく、本当は私自身がおかしいのではないか、そんな思いがして身の置き所がなかった時もあった。どちらも異常なのか、どちらか一方が異常なのか、それとも、二人とも正常なのか。。。

様子を伺いながら、もしも可能と判断される時があれば、私自身の幼かった頃の本音の一部なんかも伝えられないか? というかすかな希望もある(認めてもらいたくて必死だったんだって事だけ)。ちょっと無理そうだけど。

 

完璧主義、潔癖症、高いプライド、敏感、猜疑心、両極端な人物評価(高評価は非常に少ない、突然高評価から最低の人物に反転することあり)、競争主義、狭い許容範囲、母を表すキーワードを並べるとこんな感じだろうか。

どういう家庭環境で私が育ってきたか、上の一文だけで、わかる人にはわかっていただけると思う。ちなみに、母はきちんと出世の階段を上り定年退職まで勤め上げた生粋のウーマンリブ代表格である。

 

母の狂気は、過度な「不安」と「恐怖」に原因があった。不安から逃れるため、母は私を支配すると同時に私に強く依存してきた。老後を他人に頼るわけにはいかない。だからこそ、私が10代の頃から老後の面倒を看るのは娘の役割と教育してきたわけだ。

私は幼い頃から結婚に憧れた事がなく、また、うすうすと多分結婚させてもらえないんじゃないかと感じていた。私が医学部に行きたい、と母に初めて言った時の「アンタは親を捨てる気ね!」という、怒気を含んだあり得ない反応は、母の心の本質が凝縮されたものに他ならなかった。

その後、母はその理由を変更した。一つは「婚期を逃す」というもの。もう一つは、経済的な理由。

一つ目はあり得ない理由だった。だって、母は私を嫁に出すなんてつもりはサラサラなかったのだから。実際、私が28歳の時、母の前で正座をし頭を下げた男性に母は微笑みながら「御冗談がお上手ですのね」と答えその場を立ち去った。母は私を奥に呼んで「ふしだらだ」と言った。当時、私のお財布にあと3万円入っていたなら、あるいは、そのこと(お財布の中がカラであること)を相手に伝える勇気があったなら、全く違う人生を送っていたかもしれない。

健全な母娘関係を築くためには、この時に私が母に背を向けるべきだったのかも知れない。時機を逸すと難しくなる事は世の中にいろいろある。

 

33歳と言えば卵巣機能もピークを過ぎる頃。そんな私に声をかけてくれた優しい男性がいた。最後のチャンスと思っていたが、母は猛反対。結婚の条件は、「旧帝大出身、安定した職業、市内在住(ここで言う市内は私の居住地ではなく当然実家。当時280km離れた所に住んでいた)、相手の両親共に死去していること、親との同居」であった(人は親を亡くして初めて親の大切さを実感するもの、自分の親を亡くしていれば配偶者の親を大事にするだろう、というのが母の言い分だった)。私と結婚すれば、こんな母親がもれなくついてくるなんて、どれだけ相手に申し訳ないだろうか。適当な理由をつけてお断りした。親の反対を押し切っての結婚を相手に要求するほどの若さは当時の私にはなかった。

 

ところが、その3か月後、母の考えが反転する。どうやら誰かからチクリと言われたらしい。「30過ぎても結婚していない人は、大抵はその親に原因がある」と。カチンときたわけだ。そして、さっそく勝手に縁談を持って来たが、ロボットじゃあるまいし、そんなに簡単に気持ちが切り替えられるわけがない。一度お会いしてお断りしたら、どれだけわがままなんだと怒鳴られた。母の思考回路は全く理解の範囲を超えていた。

 

私は36歳で結婚した。単にラッキーだったんだろう。

 

仕事では大きなチャンスを見事に逃してきた。母は「いい話」ほど気が狂ったように必死になって潰しにかかった。私はいつも途方に暮れた。

 

勇気を出せば手に入れられたであろう別の世界。覗いてみたかったとは思うが今さらどうしようもない。一方で、「すっぱい葡萄」の寓話ではないが、この年になると、今の穏やかな生活も悪くないと思えるようになってきた。それからもう一つ、今となっては母にはもう私の生活を引っ掻き回すだけの余力がない(私にもそうさせるつもりがない)ことが、母をほんの少し優しく見守ってあげられる余裕になっているのだと思う。・・・と言っても私の年齢を考えると十分に遅すぎるんだけど。

 

後悔していないと言えばウソになる。仕事上、私に救いの手を差し伸べてくれた優しい方々に不誠実であった事を振り返る時、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。期待を裏切ってきた。自分に与えらえたミッションを放棄したようにも感じている。当時、八方塞がりで行き場がなかったように感じていた。本当は私自身が弱かっただけだ。母がどんなに反対しようと自分のやりたい事を貫けばよかっただけなんだけど、母を傷つける勇気がなかった。医学部に行かせてもらったから、今度は私が我慢する番だって、変な理屈なんだけど、今思えば自分の人生を放棄してたんだ。自分の人生のハンドルを母に握らせて、うまく運転できるはずなんてないのに。電柱にぶつけたり、池の中に突っ込んだり、デタラメな運転になった。

 

結婚については、結果論ではあるが、ぎりぎりの年齢(出産を考えると)だったけど、いい人で運が良かった。

どんな嫁姑問題に悩まされるのだろうと危惧していた。全くの杞憂だった。

姑の「ゆっくりしなさい」は、最初は私を試している言葉だろうと思っていた。そうではなく、本当に「あなたもみんなと一緒にゆっくりくつろいで」と心から言ってくれていたのだと気づいた時の驚きと言ったらなかった。こんなに暖かい家庭が世の中には本当に存在するのだと。

 

一方で主人にしてみたら、私と結婚して災難だったかもしれない。私が優柔不断だったから。娘の家庭に平気で口を出す母を拒むことができずにいた時期があった。軸がぶれて長い間申し訳ない思いをさせてしまったと思っている。

 

 

 

 

つづく

 

 

アジアからの留学生 1

留学生との思い出をぼちぼちと(30年前の話です)。

今日は、アジアからの留学生について少し。

 

留学生会館での生活は快適だった。若かったからかも知れない。

色んな人が一緒に住んでいて、毎日が楽しかった。面倒くさいなあ、と思うことは、正直言ってなかったわけではないが、少なくとも「寂しい」と感じたことは一度も無い。毎日が修学旅行みたいなものだった。色んな話をした。勉強の話、政治の話、恋の話、祖国の話、人の噂、その日の出来事、日本に来てビックリしたこと、本当に色んな話。

 

タイから来た可愛らしい女性がいた。農学部大学院生、綺麗な日本語を喋る明るい留学生だった。日本での生活についてそれほど困った様子もなく、ほとんど手助けをした記憶がない。しっかりしていて友人も多く、他国の留学生達とも仲良くできていたためだろう。

 

彼女の研究室を訪ねた時の事を鮮明に覚えている。

彼女は昆虫の研究をしていた。樹木につく害虫の研究で、標本箱には虫ピンで刺された小さな虫たちが綺麗に並んでいた。

思わず「うわ」と言うと、彼女はにこにこしながら言った。

「私、死んだらきっと地獄に行くね。ひどい事してるでしょ? 残酷よね」

一匹ずつピンに刺された虫たちが丁寧に並べてあって、ピンの中央に位置する虫たちの高さが綺麗に一致していた。細長いのや丸いの、やっとピンが刺せるぐらい小さいの、ちょっと大きいの。小さな白い紙に一匹ずつ丁寧な字で学名が記されていて、日頃標本に馴染みのない私には新鮮な世界だった。

「ここにいる虫たちは、いい虫もいるし樹木をダメにする虫もいる。木が枯れると私達人間が困るでしょ。でも、虫も生きてるから、本当は可愛そうね。最初は、こんな事することに、とても抵抗があった。今は慣れたけど、時々、酷いことしてるなって思う。私死んでから地獄に行く、仕方が無い」

 

彼女は両親に「学校の先生になるために日本で勉強をする」とウソをついて日本にやってきた。どうしても日本に来て勉強したかった。

「お父さん、お母さんが、私が本当は何をしているのか知ったら、きっと泣く。病気になるかも知れない。だからずっと言えない」

宗教上、どんな小さな生き物も殺生は許されない。そんな環境の中で育ち、死んだら地獄へ行くことも覚悟の上で、日本へ来て研究をしている。

こんな可愛らしい彼女のどこに、そんな強さがあるのだろうと感心した。

 

 

フィリピンから来た留学生たち。人懐こい人が多く感性も日本人に似ているのかな、多くのフィリピン人留学生達と仲良しになった。

クリスチャンがほとんどで、大抵の留学生の部屋には、イエス・キリストの絵が貼ってあったり、マリア様の像が飾ってあったりした。話をしていても、しょっちゅうキリストの話が出てくる。

 

フィリピン人は家族を非常に大切にする。時にそれが悲劇に繋がる。

当時、景気の良かった日本と発展途上のフィリピンでは、通貨の差が大変大きかった。

スカイプを使った英語学習が現在盛んであるが、フィリピン人が英語を母国語としてでなく外国語として習得しているため教え方がうまい、人懐こい性格でありサービス業に向く、という理由以上に、人件費が安く済むため格安でサービス提供できる、というのが人気の秘訣だろう。今でさえそうだ。30年前は、もっと経済格差があった。

 

国費留学生たちのうち、日本政府からの補助金の一部を母国に送金している留学生は少なくなかった。月約20万円という支給額は、住居費、食費、参考書等学習に必要な費用として考えると妥当な金額だろう。留学生会館は普通のアパートに比べると安価であるため、住居費を節約することができる。月5万も送れば、祖国では大変な金額になる。

一方で、1円も送金しない、という留学生もいた。「日本政府がボクの学習のために出してくれているお金だから国に送るのはルール違反だと思う。特に、ボクの国は貧しいし、お金を送れば町中の噂になってろくな事にならない。日本でもらったお金はボクは全部日本で使って国に帰る」

一つの立派な考え方だと思う。その時は、なるほど、と思っただけだったが、彼の考えが非常に真っ当であることを知るのはもっと後になっての事だった。

 

留学生が母国の両親に送ったお金を巡って、親族内で激しい争いになり、それが原因で精神を病み卒業できずに帰国していった留学生がいた。要求される送金額もエスカレートしていったと聞いた。とても優秀で優しい性格の留学生だったが、二国間の通貨格差があれほど大きくなければ心穏やかに研究できたのではないかと残念でならない。私にとっても大変ショッキングな出来事だった。

 

 

マレーシアからの留学生達は、おしなべて大人しい印象が残っている。勤勉で羽目を外すこともない。

男子学生は他のアジア諸国からの留学生とあまり変わらないが、女性(イスラム教徒)は黒いヒジャブをまとっているため、構内でも目立つ。

フィリピン人留学生が自分自身や家族のこと、学問のこと、その他いろんな話をしてくるので国を隔てて友達になれたのに対し、マレーシアからの留学生とは、そこまで親密になることはなかった。普通に会話はするが、個人的なことはほとんど話さない、特に、恋愛の話なんてしたことなかった。宗教の違いかも知れない。あるいは、たまたま当時、留学生としてやって来ていた人個人個人の性格だったのかもしれない。

 

インドネシアからの留学生たち。地域のお祭りでガムランの音楽に合わせた民族の踊りを披露してくれた。濃い化粧をし、金属の装飾物がたくさん付いた冠を頭に乗せ、10本の指を反り返らせて踊る独得の雰囲気は人々を魅了した。

優しい性格の人が多かった。男子留学生の書いた日本の自然を詠った詩がとても繊細で驚いた。外観からはわからない高い感性。

大学院生だけでなく、学部生も何人かいた。日本語をマスターし、日本人受験生と一緒に大学入試を突破した優等生たちだ。大学院生の留学生たちは私と同年代か年上になるが、学部生は19歳とか20歳。留学するためにどれほど真剣に学習してきたのだろうと思う。

 

 インドから来た留学生たち。巻き舌の独得のアール(r)の発音と早口の英語。カースト制度のトップの人と、中間階級の頭の切れる学生が混在していた。カースト制度は留学先でも健在で、みなでカレーを作って食べる時も、偉い地位の留学生は何もしなかった。カレーを作るのも後片付けも、他のインド人留学生がやった。暗黙の了解のようだった。

 圧倒的多数は中間階級の留学生。カーストトップの人のおっとりさはなく、どこででも生きていける逞しさが彼らにはあった。

ヘルメットなしで原付バイクに二人乗り、しかも免許証不携帯で走行中に警察官に呼び止められた。違反のオンパレードだったにも関わらずお咎めなしで済ませている。どうやったか。

警察官の問いに、"What? " で返し、ジェスチャーを交えて日本語が理解できない振りを最後まで通した。警察官が免許証は? とか、パスポートは? とか、頭を指さして、ヘルメットは? とか聞いてくるたびに、大げさな身振り手ぶりに早口の巻き舌英語でまくしたてた。警察官が一生懸命、ジャパニーズイングリッシュを駆使して言いたいことを伝えようとすると、容赦なく、あなたの英語はさっぱりわからない、と早口英語で遣り込める。20分ほど粘ったところでとうとう警察官が諦めたそうだ。もう行っていい、と言われるや、再び違反の二人乗り、ノーヘルメットで帰ってきたと言う。ちなみに彼の日本語は非常に流暢である。

 

シタタカで、押しの強い彼らが私は少々苦手だったが(みんながみんな押しが強いわけでもなかったが)、彼らに教えられる事は少なくなかった。競争の激しいインドでは日本人のようなお人好しは生きていけないよと何度も言われた。自分に有利になるように交渉する圧倒的な力は見習うべきものがある。

 

貧しい国での悲哀を彼らは誰よりも知っている。チャンスは絶対に逃がさない。

裕福な家庭に育ったブラジルからの留学生が日本に来て初めて挫折を味わった。その留学生をシタタカなインド人留学生が一生懸命慰めた。

「君は、今まで甘やかされて育てられ何不自由なく暮らしてきただろう? いいかい? 人間はみんな大きなキャンディの缶を抱えて生まれてくるんだ。缶の中にはおいしいのや苦いの、色んなキャンディがいっぱい詰まっている。おいしいキャンディから食べる人もいれば、苦いキャンディから食べる人もいる。君は今まで甘くておいしいのばかり食べてきただろう? だから缶の中には苦いのが残っちゃったんだ。それを今食べてるんだよ。でもね、苦いキャンディを全部食べ終わったら、次はまた、新しい缶を開けることができる。だから頑張って今を乗り越えるんだ。次の缶にはまたおいしいキャンディが入っているよ」

 

ヒンドゥー教徒にとって牛は神聖な存在である。彼らは牛肉を食べない。。。と思っていたら、皆、堂々と牛肉、豚肉を食べているではないか!?

「お肉、食べていいの?」と聞くと、返って来た答えは、

「僕たちは今、日本にいる。日本には神様いない。だからOK」

「ええっ? だって、遠くから神様見てるでしょ?」

「いいえ、見てない。インドでは肉は食べない、日本にいる時だけ。それでいい」

実は、留学して真っ先にインド人留学生先輩から洗礼を受ける。これは○○だ(牛肉でない何か)とだまして牛肉を食べさせるのだ。「うまいだろ? 実は牛肉なんだ」と言うと、大抵仰天するそうだ。なんて悪い先輩たち!! 最初は腹を立ててた新米さんも、次の年には後輩インド人留学生を騙して楽しんでいる。

敬虔なイスラム教徒たちは、日本に来ても、自分の宗教を捨てない。研究室だろうがどこだろうが、敷物を敷いて、時間になるとお祈りを捧げるし、断食だってちゃんと遂行する。それなのに、インド人の信仰心ときたら、何てことなの? 

 

もしかしたら、これが、彼らの環境適応力の高さの秘訣なのかも知れない。シリコンバレーでも大学の研究室でも、彼らはそこでのやり方に素早く馴染み、きちんと成果を残し、生き残っていく努力をする。

 

インド人留学生が弱音を吐いた所を見たことがない。経済的には決して裕福でなかったはずの彼らが、留学という、成功への一歩を踏み出す切符を手にするために、祖国でどんな思いをし、どんな努力をしてきたか、私はインドに行ったことがないので想像しようにもできないのだが、彼らの逞しさと時折見せてくれた果てしない優しさは、飢えて死んでいく人が隣りにいる世界を知っていたからこそなんだろう。

 

まだまだアジアから来た留学生の話題は沢山あるが、今日はこの辺で。

 

 

****

昨日、この記事を書き、アップしようとしたら、イスラム教過激派による日本人人質事件の速報が飛び込んできた。それでアップを先延ばしすることにした。

私の知る「イスラム教徒」は、真面目で優しい元留学生ばかりで、過激派の人達を私は直接知らない。もちろん留学生は日本に留学に来るぐらいだからどこの国の人だろうと親日派ばかりだろうし、存分に学問ができる、ある意味恵まれた人々であっただろうことは間違いない。そういう意味では偏った見方をしている可能性はある。それでも私の中のイスラム教徒は、私が直接出会った人々であり、彼らが平和主義者であることはずっと肌で感じてきたことであった。

多くの敬虔なイスラム教徒の方たちが過激な一派と一緒くたにされてイヤな思いをしませんようにと心から願う。

 

アップ先延ばしついでに、バングラデシュからの留学生の思い出を少し。

家族連れで来られていた留学生。工学部大学院で研究し、奥さんと二人のお子さんの四人家族で留学生会館の家族室に住んでいた。

食事に何度が呼ばれてお邪魔したことがある。部屋には最低限の物しか置かれていなかった。質素な部屋そのもの。部屋を自分色にごちゃごちゃ染め上げる留学生も多かったが、彼の部屋には備え付けの家具とカーテン以外何もなく、実に広々としていた。

奥さんと留学生が二人で作った手料理をおいしく頂いた。

お子さんが本当に可愛らしく、特に目がぱっちり、睫毛なんか付け睫毛みたいに長かった。一人は3~4歳、もう一人は5~6歳だったと思う。下のお子さんを抱っこさせてもらったら、しっかり抱きついてきて、当時独身だった私は、こんな風に全幅の信頼を寄せて抱きついてくれる子供のお母さんを羨ましく思ったものだ。

 

医学部にも何名かバングラデシュからの留学生がいた。卒業後、研究室で一緒だった留学生は、本当に真面目で、丁寧な仕事で研究成果を上げた。

母国の大学を卒業し、日本へは研究目的の留学だったため、研究と平行して日本語の習得をせねばならず、大変だったろうと思う。ベッドの上の天井に日本語の単語をびっしり書いた紙を貼り付けていると聞いた。研究も一生懸命だったが日本語の上達も速かった。

勤務先でもバングラデシュ人医師と一緒だったことがある(日本の大学を卒業し日本の医師国家資格を有していた)。日本人のカルテよりずっと読みやすいカルテだった。他科の医師へ紹介状を書いて診察を依頼すると、医師によってはミミズのような字で返書をくれて読めないことがある(最近はパソコン入力が多くなったので、そんな苦労は少なくなった)。彼の返書は難しい漢字も入ったきちんとした日本語で書かれており、とてもわかりやすかった(医療用語の漢字の中には、読み方もわからないような難しいものがある)。日本人より日本語ができると病院内で評判だった。患者さんがどう思うか正直心配だったが何のことはない、「優しい」と評判が良かった。

 

ラマダン(断食月)にはいると、会館では他国からの留学生達もパーティを控えるなどしてイスラム教徒の方達に配慮する。ラマダンの留学生達は、あと何日、あと何日、と笑いながら数えて過ごしていた。明けると、楽しい食事会。断食していない私も誘ってもらえた。と言ってもラテン系の人達のような派手なものではない。普通よりちょっと贅沢な食事を大勢で食べる。それだけ。断食後は精神的にも肉体的にもとても調子がいいらしい。

 

 

私は自分では無宗教だと思っているが、神頼みをするし、お盆にはにわか仏教徒になるし、科学の神様を大事にしたいと思っているし、クリスマスには子供と一緒にケーキを食べるし、実を言うとこっそり星占いも好きである。何と節操のないことであろうか。しかし、モヤモヤとした形であっても、私の中に信条があり、日本人独特の道徳観念を植え付けられて育っている背景からしても何らかの「宗教みたいなもの」はあると思う。

宗教は個人の生き方を支える一方で、自分たちの周囲をすべて敵対視してしまうようになるととても怖いと思う。プラスのエネルギーも強いけれど、マイナスに作用した時のエネルギーも計り知れない。

 

今回の事件が大きな争いに発展しませんように。過激派でないイスラム教徒の方達がとばっちりを受けませんように。

 

 今回はこの辺で。

50歳過ぎは神様からのプレゼント

最近、いろんな事を考える機会が多くて、自分の生き方を振り返ってばかりいる。

友人が天に召された。私より若い40代。すぐ近くの病院に入院している間、数回お見舞いに行った。その時に話した色んなことを、気がつけばぼーっと思い出している。二人とも若かった。夜中の研究室、ケラケラ笑った事、思い出話に花が咲いた。「あの時代が私にとって一番楽しかった」彼女は言った。あんなに元気いっぱいの彼女が本当は沢山の苦悩を抱えていたなんて私はちっとも知らなかった。ありがとう、と言って、彼女は私の前から姿を消した。

 

これまで多くの患者さんを見送ってきたけれど、今の私の年齢層だった方も多い。命を終えるには早いけれど、でも、当時は少なくとも私よりは年上だった人々。そんな年齢になったのだなとしみじみと思う。

40代~50代だけでなく20代の患者さんも見送った。

帽子を目深にかぶった男の子のひょろっとした後ろ姿にドキッとしたことが何度かあった。亡くなった元患者さんに似ていたからだ。担当医として一定の距離を持って治療のお手伝いをさせてもらったが、改めて、どんな気持ちで彼は一生を終えたのだろうかとしばし思いを馳せる。命は平等と人は言うかも知れないが、若い人の死がとりわけ辛かったのは偽らざる気持ちだった。

 

同窓会名簿も黒塗りの名前が少しずつ増えていく。

残念ながら、黒塗りはこれからも着実に増えていくのだろう。減ることは絶対にない。次は私の番かも知れない。

 

何だかんだ言っても、50過ぎまで生きてこられた事は、それだけで幸運の連続だった。悲しい事、辛い事、悔しい事、腹が立った事、残念だった事、いろいろあったにしても、命を取られる事なくここまで来た。ちょっとした運命のいたずらで、どこで死んでもおかしくなかったはずなのに、上手にそれを避けてこられたわけだ。自分で自分を不器用だなんて思っていたけれど、こんな風に考えると、案外器用に生きてきたんだなあと思う。

 

素直にラッキーだったと思う。50歳過ぎまで生きられない人達が沢山いる。50歳で一度人生が終わると考えれば、今の時間は神様が気まぐれでくれた私へのプレゼント。

 

プレゼントに感謝しながら明日も一日頑張ろう。

 

 

ようやくルンバを買ってみた

ルンバが話題になってから、いつも横目で見ていたが、これまで購入には至らなかった。知り合いが、出たばかりのルンバを購入し、最初こそ物珍しさで使ったものの、やはり自分で掃除機をかける方がいいと、ほとんど使わずに物置に行ったのを知っていたからである。

そこそこの大きさがあるし、試しに買ってみるには値段が高い。ルンバは便利かも、という気持ちと、使わなくなるんじゃないか、という気持ちが両方あるもんだから、結局、横目で見るだけにとどまっていた。

不思議な物で、2番手、3番手の物を買う、という気持ちはおきない。ルンバほど高価でなくても、今は、かなりお手頃な値段で似たような物が販売されている。

しかし、そもそも、「使わなくなる」リスクを考慮した上で購入に至っていないわけなので、後発品に手を出すのは、そのリスクが上がるんじゃないかと勝手に思うのである。使わなくなった時に、じゃあ、値段が安かったから許せるか、というと、そう単純な問題でもない。

 

一つは、安くてもゴミを買うには高い値段であるということ。使わないロボットほど邪魔になるものはない。処分する煩わしさを考えると、躊躇する。

 

二つ目は、「ルンバもどき」がゴミ化した時、私がロボット掃除機と相性が悪いのか、それとも、「ルンバもどき」だから使えないのか、その判断がわからなくなることである。そして、その後、私の中でロボット掃除機は、きっとマイナスイメージとなり、今よりずっと遠い所に行ってしまうだろう。便利な物はぜひ使いたい。その欲求を、こんな理由で遠ざけるのは勿体ないのである。

 

家事とはどうしてこんなにキリがないのだろう。次から次へと汚れた食器は出るし、フローリングはすぐに埃がたまる。洗濯物だってそうだ。最近流行りのカリスマ主婦、私は彼女らを心から尊敬する。専業主婦も本当に尊敬する。嫌味でも何でもなく。いかに心地よく生活するか、いかに見た目も美しく栄養的にもバランスの取れた食事を家族に提供するか、様々な事を真剣に考え実践していく。

残念ながら、私には無理。

 

さて、元来ずぼらな私は、省ける所はなるべく省こう、という精神の持ち主である。

なるべく余計な仕事はしたくない。でも、汚いのはイヤだ。

洗濯は洗濯機がする。

食器洗いは、、、残念ながら食洗機を持たない。賃貸住まいということもある。

だから、台所仕事をする時は、英語を聞いたりしながらのながら族である。

そして、掃除機。これが嫌いだ。なぜなら大きな音が出るから。ながら族ができない。唯一できるとすれば、体操と組み合わせて無理やり健康掃除法に持っていくやり方くらいか。しかし、そこまで力をいれて掃除はしないので、ちゃちゃっと済ます。

 

実際問題、家の中を常にキレイに保っておくのは、私には無理である。無理なものは無理。残念なことに旦那も主夫業にはあまり向いていない。

 

旦那にじゃんけんで食器洗い係を決めることを提案したことがあった。あった、と過去形なのは、当然、すぐに「なし」になったからだ。

どういうわけか、私はものすごくじゃんけんが弱い。一週間ほど連続でじゃんけんをしたが、全部負けた。これは一体どういうことだろう。単純に確率で行くならば、あり得ない負け方である。

じゃんけんで負けて食器を洗うと、ものすごく悔しくなる。つまり、勝った旦那は、堂々とくつろぐことができる。食事を作ってさらに、当然のごとく食器を洗うのが腹立たしくなるのである。当時は、音声を聞く、というながら勉強をしていなかったから、余計に悔しさ倍増であった。

 

なかなかルンバまで行かないが、もう少し辛抱を。

 

家事をどうするか。これは共稼ぎの家庭にとって、とてもクリティカルな問題である。

 

家族のみんなに、少しずつ手伝ってもらうのは基本中の基本。でも、残念ながら、十分とは言えない。

 

最近は本当に便利になったと思う。家事代行サービスは、ものすごくありがたいサービスだ。私は定期的に利用している。ひと月に2回、一回2時間程度の利用で、めちゃくちゃ心に余裕が生まれる。

 

何だよ、それかよ、なんて思わないでほしい。本当にありがたいサービスなんだって。土曜日、旦那は自宅、私は仕事、その時間帯にお掃除をしてもらう。電子レンジの中とか、グリルの中とか、冷蔵庫の中、ベランダまでキレイにしていただける。担当の人によって当たり外れがあるのかも知れないが、うちに来て頂いている方は、とってもお掃除上手(私と比べれば、みんなそうかも知れない)。ありがたいなんてレベルじゃない。

 

仕事から帰ってきて、玄関を開け、スリッパが揃っているのを見た段階でものすごく嬉しくなる。さらに、リビングのドアを開け、すがすがしい気持ちになる。たったの2時間で、よくあれだけやれるものだと心から感激する。本当に、家事のことでつい夫婦喧嘩になってしまう人々には是非ともおすすめのサービスだ。ちなみに費用は地域によっても違うかも知れないが、一回当たり、うちはガソリンを満タンにするよりちょっと上乗せぐらいの値段。安いと思いませんか?

 

そして、今度は、ずぼら精神にさらに拍車がかかり、ルンバの登場である。

ふぅ。やっと本題に到達した(いつものことながら前置きが長い)。

 

買った理由は簡単。アウトレットで2万円近く安くなっていたからだ。800番台の最新式ではなく780。

上手に掃除をするもんだ。売れてるはずだと思った。まっさきに思ったのは、開発者たちの思いだ。これを世に出した時は、どれだけ嬉しかっただろうと想像する。

 

20年以上前、私はMITを見学したことがある。研究室をあちこち見せて頂いたが、真っ先に目に飛び込んだのは、玄関を入って研究室に続く廊下をウロウロしていたロボットだった。空き缶拾いをしていた。試作品だったんだろうと思うが、形の違う数台の可愛らしいロボットたちだった。ルンバほどスタイリッシュではなく、機械がむき出しだったが、空き缶を見つけて嬉しそうに(?)近づいて、上手に缶を掬っていた風景を思い出した。

 

何しろ、工学系の知識ゼロなので、私にとってはネコに小判的経験だった(工学部の学生は大興奮だった。そりゃそうだろうと思う)。覚えているのは、この空き缶拾いのロボットと、卓球のラケットでピンポン玉を半永久的にポンポン空中に投げ上げるロボット、それに、渡り廊下にあったホログラム(有名な人の顔だった)、そして、大きな体育館(天井がものすごく高かった)仕様の部屋の中をロボットが飛んでいた風景ぐらいのものである。当然だけれど、見せて頂けない箇所もいくつかあった。質問を連射している人もいたが、私は物珍しさでキョロキョロしていただけである。ただロボットを作っている人たちの、本当に熱い思いだけは何となく肌で感じた。
横道にそれた。
 
それたついでに、最近はロボット大会みたいな物も盛んで、テレビで全国大会とか国際大会とか見ることができる。技術陣たちの熱い思いが画面を通して伝わってくる。
 
で、ルンバを使った時に真っ先に浮かんだのが、これを作った人達の「得意そうな顔」なのである。これは、考えてみれば私にとっては初めての経験だ。掃除機だって、洗濯機だって、車だって、それを作った熱い人達が大勢背景にいるはずだ。高性能の物が次々登場してきているからそういう人達を思いやっても良さそうなものだが、商品を通じて作った人達を直接的に思い描いたのは今回が初めてだった。
 
初代のルンバと比較すると、恐らく多くの新機能が追加されていると思う。大きい割には本当に隅々まで掃除してくれる工夫がなされている。間違いなく私はルンバが手放せない。買って良かった。
 
汚れがひどい部分はセンサーが作動して何度も行ったり来たりする。部屋の端や隅っこは得に好きで丁寧に掃除してくれる。
ストーブなんか、もう大好物みたい。溝に溜まった埃も取ってくれた。隅っこを掃くために、どんどんとストーブを押してしつこく掃除する姿に笑ってしまった。
 
自分で掃除する際には、ついつい省略してしまう棚の下の隙間。ルンバはそこにも入り込んで行ったり来たりした後、しばらくすると、ちゃんと出てくる。ルンバに閉所恐怖症がないのは本当に良かった。

どうも私より掃除は上手なようだ。

 

ルンバの細かい機能を専門的に解説するのは私には荷が重すぎる、というか、できないので、申し訳ないブログになっちゃったけれど、一言で感想を言うなら、「もっと早く買えば良かった」って思うぐらい、買って大正解だったってこと。

 

あとは、消耗品類など維持費がどうかなって所だけれど、自分で掃除をすることを考えると問題にならないだろう。それから、耐久性かな。

 

ということで、ルンバについての記述は極端に少なかったけれど、ルンバを買ってみた今日のブログはおしまい。

また、今度。